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葵祭2019年:斎王代と行列、日程、有料観覧席を徹底解説【当日用モバイル版】

Contents

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本稿の趣旨

Overview

葵祭の歴史や由来、斎王代、流鏑馬神事、歩射神事、御蔭祭などのみどころ、日程、行列のコース、おすすめ撮影スポット、移動手段、アクセスなどすべてをご紹介します。尚、昨年のデータに基づきますので、詳細は各神社の上賀茂神社下鴨神社京都市観光協会などの公式サイトなどでご確認下さい。

まずは、最初に葵祭の歴史と斎王代につき概観していただきます。その後、所謂「葵祭」たる、路頭の儀(行列のこと)、そして、社頭の儀(賀茂社で行われる神事)を解説します。社頭の儀は上賀茂神社で行われるものをご紹介します。その後、見所と5月中に行われる各行事の日程、有料観覧席、観覧スポット、移動手段、アクセスなどをご紹介します。約1万7千字ほどございますが、お付き合いいただければ幸いに存じます。尚、本投稿は葵祭当日に向けたモバイル版です。画像やビデオの数をすくなくし、全部で7ページに分割しています。ひつようなページにリンクをはるなどして、ご活用ください。完全版をご覧になりたい方は、こちらをどうぞ。

いちきしま ひめ
いちきしま ひめ

それでは出発しますよ~

葵祭の概要

  • 葵祭の歴史は飛鳥時代に遡る。もともとは加茂/鴨氏の祭だったが、平安時代に勅祭になった。詳細は本文で詳らかに述べる。
  • 斎王代は「斎王」の代わりという意味である。斎王とは歴代天皇の代わりに葵祭に奉仕した巫女のことである。現在では京都に所縁のある女性の中から選ばれる。
  • 葵祭は毎年5月15日におこなわれるが、前儀・後儀が約一か月の間に行われる。有名なものは、流鏑馬神事、斎王代御禊の儀などがあるが、公開されるもののうち、最も重要なものは、御陰祭である。これについては本文中にリンクを明示するので、そちらを参照されたい。
  • 葵祭は上賀茂神社・下賀茂神社での社頭の儀、ならびに、御所(京都御苑)~下鴨神社~上賀茂神社まで移動する路頭の儀により構成される。これらすべてを見ることは不可能である。観覧すべき場所、移動方法についての対策は本文で述べる。
  • 御所(京都御苑)、下鴨神社、並びに上賀茂神社には有料観覧席が設けられている。御所と下鴨神社のものは事前に購入することができるが、上賀茂神社のものは当日のみ購入可能である。
  • 本投稿は随時更新される。
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葵祭とは?

歴史

葵祭2017

葵祭の正式名称は「賀茂祭」といいます。「賀茂祭」というのは、賀茂神社の例祭を指します。賀茂神社とは賀茂御祖宮神社(かもみおやじんじゃ。下賀茂神社の正式名称)と賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ。上賀茂神社の正式名称)の総称のことです。かつては旧暦4月の2回目の酉の日に行われていましたが、現在では毎年5月15日に行われます。

祇園祭、時代祭と並び京都三大祭の一つとして知られますが、同時に、石清水八幡宮の岩清水祭、春日大社の春日祭とともに三勅祭としても知られています。勅祭とは天皇の使者たる、勅使が派遣される神社の祭祀のことです。先頃行われた平安神宮の例祭などがこれに当たります。三勅祭とは、勅祭の中でも、とりわけ旧儀を保存する目的で、古式に則って特別な方式で行われるもののことです。

平安時代には貴族の間で「祭」といえば、賀茂祭をさしていました。この賀茂祭が「葵祭」と呼ばれるようになるのは江戸時代に入ってからのことです。江戸時代になると、賀茂祭の時、宸殿、牛車、勅使などの参列者全員が賀茂社の神紋たる葵の葉で飾るようになり、このことから「葵祭」と呼ばれるようになりました。

葵祭のはじまり

葵祭の起源は少なくとも平安京遷都以前の飛鳥時代に遡ります。

上賀茂神社の賀茂祭のパンフレットによると、上賀茂神社の御祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのかみ)が神山(こうやま。現在でも禁足地で磐座があります)に御降臨された時に、神託により、葵をつけた馬でお迎えしたことに起源をもつと言われます。

また、『山背国風土記』逸文、若しくは『加茂縁起』によれば、欽明天皇在位時(6世紀半ばころ、文献により異なる)、日本国内では天候が荒れ、風水害が続き五穀が実らないなど、天災に見舞われました。欽明天皇は567年、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に原因を占わさせると、賀茂の神々の祟りだと判明しました。卜部伊吉若日子は勅命を帯び、旧暦4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶり、賀茂の神のおわす斎庭を一気にかける駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になりました。今日ですと、葵祭当日、上賀茂神社で最後に行われる走馬の儀、若しくは御阿礼野で行われる山駆(やまがけ)がこの駆競に相当します。

その後、平安時代に入り、810年には律令制の下、勅命により執り行われる勅祭となり、819年には中祀に準じて斎行すべしとの勅命が下されます。『延喜式』によると、祭祀は大祀、中祀、そして小祀にわかれます。これらは斎戒(祭祀に際し、禁忌を犯さないように努めること)の期間により区別されます。中祀では祭の前3日間潔斎します。大祀は践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい。天皇が即位した後最初に行われる新嘗祭)のみ、中祀は祈念祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の四者のみです。

当時は後述申し上げます社頭の儀はほとんど公開されず(現代でも垣間見ることができるだけです。)、上皇、貴族、市民、地方からの見物人は御所から賀茂社へ向かう行粧(行列のこと)を見ていました。この様子は『源氏物語』や『栄花物語』などに描写されています。

このように平安時代には盛大に行われた葵祭ですが、室町時代には徐々に衰退に向かい、応仁の乱以降は途絶えてしまいます。

この後、江戸時代にいったん復活しますが、再び、明治時代に途絶えます。明治天皇の旧儀復興の仰せにより、先程申し上げました、三勅祭となり復活しますが、太平洋戦争中に行粧が中止され、社頭の儀のみが行われることになります。戦後の1953年に行粧が復活し、1956年に、後述します斎王に変わる、斎王代の女人行列が行われるようになり、現在に至ります。

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