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祇園祭2020:山鉾巡行・宵山は中止決定ですが・巡行の歴史など如何

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山鉾の歴史と発展と災難

南北朝時代

現在のような山鉾巡行が始まったのは南北朝時代であると考えられています。(鎌倉時代からともいわれますが、本サイトでは南北朝とします。)これは結束した町を代表するものとして祇園社の神輿に随行(しないかったものもあります。)するものでした。他方、座を中心として出されたものもあります。この時代は祇園社(神仏習合時代の八坂神社のこと)が延暦寺に属していた関係で、神輿がなかったので渡御ができない期間が20年以上ありましたが、この間も山鉾巡行は行われました。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

この時、バンバン発展したんだ。たぶん神輿が来なかったから、多分、その分山鉾で燃えたかったんだべ。足利義満も見てたらしいぜ。

応仁の乱

その後応仁の乱がおこり、祇園祭は1467年から1499年までの33年間開催されませんでした。1500年に復活しますが、それまで58基あった山鉾は37基にまで減少します。応仁の乱後は上京と下京の一部が何とか残りました。それぞれ塀で囲まれ、一本の道でつながっていました。この時の下京部分が現在の鉾町とほぼ重なります。この時、幕府が幕府は座にも鉾をだすように何度も頼みますが、ついに復活することはなく、地縁団体たる町の山鉾のみになってしまいました。

その後、1533年に延暦寺では神輿が使えない状態になり、鎮守社のような性格を有する日吉社の祭が催行できないにも関わらす、末寺たる祇園社の祭が催行されるべきではない旨、室町幕府に強訴したところ、これが容れられたため、祇園祭(祇園会)は中止となりましたが、このとき、有名な『祇園執行記』にある「神事これなくとも、山鉾渡したし」(神輿が来なくても、山鉾だけは巡行させて、祭の趣旨を全うしたいの意)という言葉がでます。これが所謂「町衆によって支えられている」という時の根拠になっています。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

当時はよー、この手の強訴がよくあったんだ。話すと長くなるから結論だけ言うと、延暦寺ともめると幕府はスゲー面倒なことになったんだ。

本能寺の変

1582年、本能寺の変の影響で、11月に延期されました。

比叡山の強訴

16世紀には比叡山の強訴で冬場、ひどい時は大晦日にずれ込みました。

徳川家綱逝去

1680年、徳川家綱の死去により中止。この人の代から将軍宣下が江戸で行われるようになりました。

禁門の変

1864年の禁門の変の影響により、翌1865年の前祭の巡行が中止になりました。

コレラ大流行

1879、1886、1887、1895年、今日でいうコレラが流行し、巡行は5月に前倒し、若しくは10月・11月に延期されました。

大雨

1884年、大雨のため、中断、23日に延期されました。

江戸時代の三大火災

宝永の大火 1708年

四条、鴨川、今出川、油小路で囲んだ辺りの火災に見舞われ、函谷鉾などに損害が生じました。

天明の大火(団栗焼け)1788年

京都が被った最大の火災です。出火元は鴨川の東岸でしたが、火は鴨川を越え、七条、鴨川東岸、鞍馬口、千本で囲んだ範囲、洛中の80パーセントが焼失しました。この時、前祭では23基の内6基、後祭でも同じく11基の内の6基のみで巡行がおこなわれました。

元治の大火(蛤御門の変) 1864年

直近の一番大きな火事です。この時菊水鉾が巡行不能になり、89年後の1953年に復興しました。同じく大船鉾も被害をうけ、150年後の2014年に復興しました。また、鷹山もこの時にたまたま会所ではなく、個人宅の確か地下の藏にしまってあった御神体の頭と腕を残して焼損しました。ただし、巡行自体は台風で大破したため、1826年のから中止されています。193年後の2019年、唐櫃で巡行に復帰しました。

明治天皇容体悪化

1912年、明治天皇の容態が悪化したことに伴い、後祭が中止となりました。

明治天皇崩御

服喪のため、前・後祭とも8月に延期されました。

太平洋戦争

1943年から1946年まで中止になりました。1947年に復活します。ただし、この時はたしか、GHQの監視のもと、長刀鉾と月鉾が寺町辺りまでいって帰ってきただけのはずです。

直近ですと、阪急の駅の工事のため、1962年に中止されました。本年中止された場合、58年ぶりの中止となります。

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