東大寺大仏殿とは?
東大寺大仏殿は厳密には東大寺の金堂という建物です。金堂とは寺院で御本尊を祀る建物のことです。大仏殿は758年に完成しましたが、1180年に焼失します。その後1195年に再建されましたが、1567年に再び焼失し、現在の金堂は1709年に建立されました。内部には毘盧遮那仏像(所謂、「奈良の大仏」さま)が祀られています。
大仏さんの詳細はこっちを参照してくれ。
東大寺大仏殿の歴史
最初の大仏殿(758年~1180年)
東大寺の前身は、聖武天皇と光明皇后が皇太子の基親王(もといしんのう)の菩提を弔うために、728年に造営した「山房」に遡ることができます。この「山房」が次第に金鐘寺(こんしゅじ/きんしょうじ)と呼ばれる寺院に発展します。金鐘寺は742年に大和国国分寺となり、「金光明寺」と名称を改めました。その後、聖武天皇の「大仏造顕の詔」により大仏さん(毘盧遮那仏)の建立が始まると、その過程において、「東大寺」の名称が付されるようになったようです。
大仏殿は752年に大仏さまが完成し、開眼会が執り行われた後、開始され、6年後の758年に完成します。
桁行は11間(約86メートル)、梁行7間(約50.5メートル)高さは約13丈6尺(約40メートル)です。建築様式は和様です。
ここでいう間(けん/げん)は尺貫法の間(約1.8 メートル)のことじゃねーぜ。柱と柱の間の事だ。後で詳しく説明するぜ。和様(わよう)についても、あとでまとめて大仏様(だいぶつよう)といっしょに説明するからもう少し待ってくれ。
11間なら柱が12本あるって意味だよ。この後建てられる2つの大仏殿は大仏様という建築様式でたてられているよ。
現在、我々が拝することのできる大仏殿はこの大仏殿ではありません。最初の大仏殿は1180年の平重衡の南都焼き討ちで大仏さまと共に焼損します。この時、興福寺も同様に焼損します。この後、興福寺は朝廷や藤原氏の援助の下、復興しますが、東大寺はほぼ自力で復興することとなります。
二代目の大仏殿(1195年~1567)
その後、源頼朝の主導、並びに重源上人という僧侶の勧進により、1185年に大仏さまが、1195年に大仏殿が再興されます。
大きさは一代めとほぼ同じですが、建築様式は大仏様(だいぶつよう)です。
次いで1567年、松永・三好の兵火という、戦国武将の争いが勃発します。この時、三好軍が東大寺に布陣していたところ、おそらく失火で大仏様の頭部と大仏殿を焼損します。その後、一旦、大仏殿が仮設されますが、1617年に大風で倒壊します。
現在の大仏殿(1709年~現在)
その後、大仏さまは満足に修復されないまま、痛々しいお姿で雨ざらしになっていましたが、1692年に完成し、翌年開眼供養が行われました。この後、大仏殿は1709年に竣工しました。
桁行は7間(約57メートル)、梁行7間(約50.5メートル)高さは約15丈6尺(約46メートル)です。建築様式は大仏様です。
虹料につきかくこと
和様と大仏様
和様というのは、鎌倉時代以前までの奈良時代以来の日本独自の建築技法(厳密には建築技法 indigenous to our country を大陸の影響の上にdevelopしたもの)をさし、鎌倉時代に宋から伝わってきた工法です。東大寺大仏殿が鎌倉時代の再建に大仏様が用いられた契機は、1180年に焼損した大仏さまを鋳造すべく、先ほどご紹介した重源上人が宋の陳和卿をいう鋳師を招聘したことによります。陳和卿は惣大工にも任命され、大仏殿の復興にも携わりました。ここで、当時の宋の建築技法である大仏様が用いられることとなりました。大仏様は天竺様とも呼ばれましたが、インドとの混同を避けるため、大仏様という名称が定着しました。和様と大仏様の違いは構造(強度)と外観に於いて顕著です。
上の写真をご覧下さい。柱の上にある角材を頭貫(かしらぬき)といいます。貫とは、柱などの垂直の材をつなぐ水平に渡された材のことです。柱はこの頭貫により連結されています。柱の上は溝があり、頭貫がはめこんであります。強度を補うために長押(なげし)と呼ばれる木材が柱を繋いでいます。長押は柱の形に合わせて削られているので、柱と柱をある程度固定することができます。更に、柱を太くし、壁を厚くすることで強度を得ています。
他方、大仏様では、貫が縦と横に組み合わされ、柱を貫通しており、楔で止めてあります。縦と横の貫は柱の中で交差し、且つ外に飛び出しています。一枚目の写真は東大寺大仏殿の回廊で、和様で作られており、貫は外にでていません。二枚目は大仏殿南大門ですが、貫が外に出ています。この構造により、柱と貫の連結が強固なものになっています。故に柱を細くすることも、壁を薄くすることも可能です。
太い木を探すのは大変だよね。
更に、和様では屋根を支える肘木は柱に差してあるわけではありません。大仏様では、肘木と呼ばれる木材がすべて柱に差し込まれています。一部は通し肘木と呼ばれ、貫を延長したものです。
次に外観について述べます。先ほど申し上げましたように、大仏様では貫が外にでます。この飛び出している部分を木鼻(きばな)と呼びます。この木鼻には見栄えをよくするために、繰形(くりかた)という曲線がついています。
まー、簡単にいうとよー、外からみると、柱からなんか雲みたいな形の棒が飛び出てて、中からみると、柱と柱の間に棒がいっぱいあるってことだ。で、これらは強度に寄与してんだ。他にもいろいろあんだけどよー、簡単にいうとこれらが一番肝要なとこだ。
構造
概説
東大寺大仏殿は間面記法で「三間四面」と表記されます。当該記法は古代に用いられていた、建物の規模を示すたものものです。
「三間」とは、先ほど申し上げました様に、柱と柱の間の空間の数を意味します。昔はこれで建物のおおよその規模を知ることができました。
~メートルとかの具体的な単位じゃねーのになんで大きさがわかんのかって思うべ?実際はよー、造る人は尺を使って具体的な長さを図ってんだ。でなきゃ、まともな建物にならねーべ。この「三間四面」てのは、今でいえば、「間取りは4LDK」みてえなもんだ。具体的に何平米とかはわかんねーけど、大体の大きさは分かんべ?
「三間」は桁行(けたゆき)の幅(長さ)を表しています。「四面」とは建物の四面に庇(庇)がついていることを表しています。これだけでは何のことかわかりませんので、以下、詳らかにしていきます。
母屋
上の図をご覧下さい。この図は母屋/身舎(もや)という寺院建築機能面での最小単位を表しています。点は柱を、線は壁を示しています。建物は桁行と梁行(はりゆき)で示されます。赤い線が桁行で、青い線が梁行です。この図ですと、桁行が三間、梁行が二間です。
桁や梁とは何を意味するのでしょうか。上の写真をご覧ください。これは八坂神社の手水舎です。桁行が一間、梁行も一間です。
中に入ってみましょう。左右に柱があり、赤いい線が桁。青い線が梁です。梁の長さ、桁の長さ、ともに一間で、母屋のみで構成されています。これら桁と梁の伸びている方向をそれぞれ桁行、梁行といいます。
梁(青い線)の上には棟木(黄色の線)があり、屋根の頂点を構成しています。棟木からは屋根を支える垂木(緑の線)が伸びています。垂木が乗っているのが桁(赤い線)です。
再び上の図に戻ります。通常寺院などの建物は正面から見て横長になっています。則ち、横(桁行)が長く、縦(梁行)が短くなっています。一般には長い方が桁行で短い方が梁行であるといわれることがありますが、厳密には相対的なものです。
上の図ですと、母屋の桁行は三間、梁行は二間ですが、「三間」と表されます。間面記法では梁行は省略されます。これは、昔は梁行は二間だったため、省略しても差し支えなかったからです。
庇で母屋を囲み、建物を大きくする
次に、建物全体を大きくしてみましょう。簡単なのは、母屋を大きくすることです。ですが、これには問題があります。桁行の方に建物を広げるのであれば、柱を増やしていけば問題ありません。実際に、先ほどの回廊は桁方向に柱を増やしたものです。三十三間堂も同様です。ところが、梁方向に伸張するには限度があります。これは強度などの関係で梁の長さに限度があるからです。
後述しますが、東大寺大仏殿では、大仏さまは母屋の中におわします。大きな空間を確保するため、梁行を一間広げて三間にしています。
抽象的な構造のはなしばかりで飽きてきたかもしれねーけど、もう少し辛抱してくれ。寺院建築っつーのは、今ヤギが話してる構造と機能の間に連関があるんだ。これを知ってると、他のお寺なんかにいってもきっと新しい発見がある筈だぜ。
そこで、柱を立てて母屋とは別に床を足します。これを庇(ひさし)といいます。三間の母屋の一つの面、例えば前面だけに庇を付ければ「三間一面」となります。上の図ですと、左右に一間の庇がついていますので、「三間二面」となります。
東大寺大仏殿は「三間四面」ですので、四面に庇がついています。単純に四面に庇を付けただけですと、丁度十字のように角が欠けてしまいます。大仏殿ではこれを補うように角にも庇を追加して、母屋を囲むように庇がついています。
この様にして、庇を追加することにより、母屋を含んだ建物全体を拡張することができます。庇に庇を追加することもでき、この場合は「孫庇」などと呼ばれます。
裳階でさらに拡張する
裳階(もこし)とは簡単に申しますと、屋根の下にあるもう一つの屋根(とその下の空間)のことです。
上の写真をご覧ください。大仏殿には屋根が二つ付いていて二階建てのように見えます。しかし乍ら、実際は二階建てではありません。
現代の二階建ての建物ですと、一階から二階まで柱が通っていますが、昔の重層の建築物はこのような構造をしていません。二階建てでしたら、一階部分の柱(赤い線)の上の少し内側に二階部分の柱(青い線)が乗っています。(構造が複雑なので、ここではこのようにお考え下さい。)東寺の五重塔はこのような構造になっています。当該記事でも触れていますが、お椀を五つ積み重ねたような構造になっています。
ところが、大仏殿では矢印で示した柱(庇の外側を形成する柱)が上の屋根まで貫通しています。つまり、一階建てです。下の屋根はこの柱の途中についているだけです。この様な構造になっている場合、屋根の下の部分は裳階とよばれます。
もし、矢印の柱が下の屋根のところで止まっていて、その上に二階部分の柱が新たに乗っていれば、裳階じゃなくて庇になるよ。
簡単に言うとよー、大仏殿ではお椀が二つ重なっているんじゃなくて、一つのお椀の横に屋根がついてる感じだ。
そして、この裳階の屋根は庇の外側の柱の上の方についています。故に、裳階がある場合、庇の外側の柱の間の壁には窓などをつけることができません。
下の屋根の上(←のところ)はすぐに肘木があって、窓とかはねーべ?
大仏殿の機能・意義
おさらい
さて、ここまでで、大仏殿は母屋、庇、裳階で構成されていることがわかりました。それでは、次にこれらがどのような意義、機能を持っているかにつき、三十三間堂と比較しながら考察します。(機能が明確に区別されているため)
三十三間堂については以下のリンクをご参照ください。
母屋
母屋は寺院建築の中で最も重要な場所です。構造上、天井が庇に比べ、高くなっていて、御本尊などが祀られています。大仏殿では桁行三間、梁行三間の母屋の中に大仏さまがおわし、特別な空間になっています。
大仏さまは真ん中の一間、左右の一間には蓮座(台座)があるよ。
これは他の寺院でも同様で、三十三間堂でも母屋に1,001体の観音様がおわします。この様に母屋は神聖な場所になっており、清水寺の千日詣りのような特別の機会を除き、通常は一般人が足を踏み入れることはできません。(清水寺では御本尊の千手観音像などは母屋の中に祀られています。)
庇
母屋に対し、庇は重要度が低くなります。天井も母屋に比べて低く、従たる関係にあります。大仏殿では、大仏さまの脇侍たる、虚空蔵菩薩像、並びに如意輪観音像が庇部分に祀られています。他方、三十三間堂では、庇は一部を除き、我々が参拝した時に歩く廊下として機能しています。これは特に母屋の背後に回った時が顕著にご理解頂けるかと思います。
裳階
裳階は更に重要度が下がります。大仏殿では四天王像の内、広目天像と多聞天像が祀られています。先ほどの大仏殿の模型も裳階にあります。三十三間堂には裳階がありませんので、比較できません。