いこの記事の構成
- 1ページ 概説、宇迦之御魂神・荼枳尼天・狐さん、伏見稲荷大社の稲荷五柱、祖霊信仰と神奈備・龍蛇信仰、祖霊信仰・霊穀信仰、稲荷大神とキツネさん
- 2ページ 荼枳尼天とキツネさん、伏見稲荷大社と東寺、宇迦之御魂神と荼枳尼天との習合、キツネさん、お稲荷さんのご利益、参考文献
このページのもくじはこの下にあります。
概説
お稲荷さんは我が国社寺で遍く祀られており、もっとも親しい神様です。そして、伏見稲荷大社は全国に約三万社あるとされる稲荷神社の総本宮でありますところ、御祭神として稲荷大神を祀っています。この「稲荷大神」とは、所謂お稲荷さんのことですが、どのような神様かと言うと、決して一義的に捉えられているわけではありません。本稿では伏見稲荷大社の御祭神たる宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、そして現在では豊川稲荷などで祀られている荼枳尼天(ダキニ天)、並びにお稲荷さんから想起される狐さんにつき解説します。合掌

明治以前の神仏習合下では、神祇たる宇迦之御魂神とダキニ天は混淆していたため、峻別することは困難を伴いますが、説明の便宜から、両者を分けて解説し、適宜キツネさんについても解説します。
宇迦之御魂神、荼枳尼天、狐さんとは?
まずは、宇迦之御魂神、ダキニ天、キツネさんにつき外観します。
- 宇迦之御魂神・・・創建から現在までの伏見稲荷大社の主祭神。我が国の神祇で同神社で創建当初から一貫して祀られている。ただし、同神社では宇迦之御魂、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)の五柱を以て「稲荷大神」としている。
- 荼枳尼天・・・密教の仏で、神仏習合の下では宇迦之御魂神の本地、若しくは同祭神と同視され、伏見稲荷大社に境内にあった愛染寺で祀られていた。弁財天、キツネさんなどを介して宇迦之御魂神と混淆が生じる。
- キツネさん・・・伏見稲荷大社では、宇迦之御魂大神の神使/眷属として祀られているが、例えば狐憑きを祓った後などに、キツネさん自体が「お稲荷さん」として祀られているところもある。

お稲荷さんというと、どうしてもキツネさんが浮かんでくるけど、あくまでも、伏見稲荷大社では「稲荷大神」ではなく、稲荷大神とオレ達の間を取り持つ動物として位置付けられてんのよ。よくメッセンジャーと表現されてるけど、medium(なにかを媒介するものとか人のこと)の方が適切だ。
現在の伏見稲荷大社の稲荷大神五柱
概説
「稲荷大神」、すなわちお稲荷さんは伏見稲荷大社創建当初(もっとも早い説で7世紀)は宇迦之御魂神一柱、平安初期には宇迦之御魂神、佐田彦大神、大宮能売大神の三柱、1438年には右三柱に、田中大神、四大神を加えた五柱となり、これらの五柱が一つの神殿にまつれれている状態を五座相殿といいます。本章ではこの五柱につき解説します。

この三柱は文献によって違いがあるんだけど、伏見稲荷大社や『二十二社註式』は宇迦之御魂神、佐田彦大神、大宮能売大神としてるね。他には宇迦之御魂神、素戔嗚尊と太市比売神とかいろいろあるよ。
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
五穀豊穣や食物の女神とされます。「うか」は古語で食物を意味する「ウケ」が変化したもので、稲作の御神霊を意味します。後述します、伏見稲荷大社創建の逸話もこれを補強し、伏見稲荷大社の創建時から現在まで、一貫して主祭神として祀られています。

ただ、後述するけど、祖霊信仰や霊穀信仰がに則り、当初は漠然と穀物や稲作の神としていたところ、後年になって記紀の神たる宇迦之御魂神と結びつけられたんじゃねーかな。
また、全国にある大半の稲荷神社で主祭神として祀られ、記紀では以下のように描写されます。
- 『古事記』・・・宇迦之御魂神と表記。素戔嗚尊と神太市比売(かむおおいちひめ)の子。
- 『日本書紀』・・・伊弉諾神と伊邪那美が空腹で気力がない時に誕生。
女神ですが、東寺に関係する場合、老翁として描かれる場合もあります。

平安初期に伏見稲荷大社は東寺の鎮守社になるのよ。この紐帯は後に荼枳尼天との混淆の端緒にもなるんだけど、東寺関係の逸話や絵では白髪の老翁として描写されてんのよ。あとで詳しく説明するからちょいと待っててくれ。
尚、神仏習合の下では、十一面観音菩薩(若しくは聖観音)が本地とされました。

他の四柱の神様も本地が割り当てられたんだけど、話がややこしくなるから、宇迦之御魂神の本地だけにしとくね。荼枳尼天が本地ではないことだけ覚えておいてね。
佐田彦大神
天孫降臨時に瓊瓊杵尊を先導したとされる猿田彦神と同一視されます。「さるた」が詰まって「さた」になったと解されています。また、『日本書紀』では伊勢の狭長田(さなだ)に降りたとされ、「さるた」と「さなだ」はいずれも神聖な田を意味するとする見解もあります。
大宮能比売神
神祇官の神殿に祀られた神で、宮殿内を守る神とされます。神饌を扱う巫女の神格化とする見解があります。
田中大神
詳細は不明ですが、田の神と解されています。ただし、大国主、猿田彦、鴨建角身命(かもたけるぬみのみこと)と同視される場合があります。
鴨建角身命は賀茂県主の祖とされ、現在は下鴨神社で祀られているよ。あとで説明するけど、伏見稲荷がある辺りはもともと賀茂氏が住んでいたから何か関係があるのかもしれないね。
四大神
賀茂氏と関係が深い松尾大社の四大神社との関連性から四季の神とされます。また、竈の神とする見解もあります。
正一位稲荷大明神
後述しますように、伏見稲荷(当初は稲荷本宮、藤森稲荷などとよばれた)は秦氏の私的な氏神を祀る神社でしたが、827年に淳和天皇の体調がすぐれない原因が東寺の塔を造営するときの木材を稲荷山から切り出したことによる祟りだと判明し、これを鎮めるため伏見稲荷大社は従五位を賜ります。927年には『延喜式神名帳』では明神社に列挙され、940年には承平天慶の乱の平定祈願の奉賽(神に対するお礼のこと)として、従一位を賜ります。後の942年には正一位を下賜されます。現在でも伏見稲荷から分霊された神社には先述の稲荷大神が祀られ、正一位稲荷大神の幟が見られます。
伏見稲荷の創建以前 祖霊信仰と神奈備・龍蛇信仰
祖霊信仰と神奈備
それでは、ここから時系列に沿って伏見稲荷大社に祀られる神様についてみていきましょう。
神道(ここでは一定の体系化がなされる以前のものを指す)の根幹は自然そのもの、若しくはその背後に擬制された神と、祖霊信仰であり、これら神、若しくは神たる祖霊が宿る客体(依代)を神奈備と呼び、山や森林などがこれに該当します。
伏見稲荷大社に於いては現在の御本殿の背後の稲荷山が神奈備山として賀茂氏の信仰の対象となっていました。



五山送り火も祖霊信仰と仏教の盂蘭盆会が結びついたものだよ。
これを裏付けるように、近隣の深草遺跡からは弥生時代中期の石器、鍬、石包丁などが発掘されています。また、稲荷山の各峰は古墳があり、鏡などが出土することから、4世紀頃から祭祀がなされていたと考えられています。また、千本鳥居近くの稲荷谷命婦遺跡からは埴輪棺も出土しています。
山は水稲耕作に不可欠な水をもたらします。他方、祖霊とは山ににおり、人里を訪れまた帰っていくと信じられていましたので、水稲耕作に必要な神の依代、祖霊信仰という要件を満たしますので、稲荷山は信仰上記の信仰の対象になっていました。

後はよー、祖霊は子孫の繁栄を望むものだべ。だから、水稲耕作で、若しくは水稲耕作で子孫が繁栄するっつー考えに至るのよ。
龍蛇信仰
そして、この水に対する信仰は賀茂氏の水神たる龍・蛇に対する信仰を惹起します。稲荷山にはたくさんの滝があり、今日でも、伏見稲荷のお札には蛇が描かれており、境内の神宝神社では両者が祀られています。

伏見稲荷大社の社紋は巳をデフォルメしたものだしね。
稲荷大神:秦氏と祖霊信仰・霊穀信仰
先述の通り、稲荷山近辺は古来賀茂氏が住んでいましたが、その後、渡来系の秦氏が進出し、賀茂氏の稲荷山に対する信仰・祭祀権を承継します。

承継っつーか、adopt(受け入れた?)したのよ。
『釈日本紀』などが引用する『山背国風土記』逸文では秦氏の祖霊信仰と水稲耕作の神の信仰の対象としての稲荷山と伏見稲荷大社の創建が描写されます。
”風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱を積みて富み裕ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜じて、家に殖ゑて祷み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。”

以下、大意だよ。
- 秦氏の祖先たる秦伊侶具は稲を積み上げる(収穫が多い)ほど栄えていた。
- 餅を的にして矢を放ったところ、餅が白鳥になった飛んでいった。
- 稲荷山の上に舞い降り、稲がなった(ここは原文が改竄されているので後で解説します。)ので、社の名前にした。
- 秦伊侶具の子孫は秦伊侶具の当該行為を悔い、社の木を抜いて家に持ち帰り植えた。

「伊禰奈利生ひき」っつーところは、原本では「生子」、若しくは「子生」と書いてあったんだけど、江戸時代に国学者の伴信友という国学者が、稲荷社の由来だからっつーことで、「伊禰奈利生ひき」って書き換えて、これが公定解釈みてえに流布してんのよ。なんで証拠方法の改竄が肯首されんのかしらねーけどな。畢竟、餅がトリさんになって生んだ子だから、餅になる前、すなわち稲みてえにすればよかったんじゃねーの?

1は祖霊信仰、2、3は霊穀信仰を示唆し、4は初午大祭の時の験の杉(上の写真)を表していると解されます。
これが伏見稲荷大社の創建に係る逸話とされています。『山背国風土記』逸文にはいつ創建されたかは記載されていませんが、『二十二社註式』などでは和銅四年(711年)とし、伏見稲荷大社もこの見解を採ります。なお、「稲荷」と記載される最も古い記録は827年です。先ほど申し上げました通り、同年に従五位を下賜されるまでは秦氏の氏神をまつる神社で、具体的な御祭神は稲に関する神であったと考えられますところ、後に穀物神たる宇迦之御魂神が祀られるようになったと考えられます。
稲荷大神とキツネさん
伏見稲荷大社の神使たるキツネさんは白狐(びゃっこ)とされます。そして、御祭神たる宇迦之御魂神は御饌神(みけつかみ。御饌とは神饌の意。所謂食物の神様)であるところ、これが三狐(みけつね)に転じたとされます。

以下、実質的に考察してみましょう。ただし、ここから先は各種資料から推認されるだけで、証明できるわけではありません。あくまで、そのように解する余地があるにとどまります。
我が国では、六国史の時代では白狐、黒狐が貴族階級では瑞祥とされました。これは古代中国の影響と解されますが、この傾向は早々に潰えてしまいますが、その後、中国からもたらされた妖狐などの概念に影響され、独自の狐観が醸成されます。
9世紀になると薬師寺の僧が著した『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』の正式名称)には尾張国の諸説話があります。
一つは美濃の国のある男が野原で美しい女と出会い、結婚し、子を授かります。ある日、妻(キツネ)が年米(年貢であると解される)を精米するために稲舂女(いなつきめ。精米などの作業をする人)におやつを出しに小屋に入って行くと、子犬が妻を追いかけたところ、妻は驚き、本来の姿である野干(やかん。きつねのこと)に戻ってしまいまい、家を去ることになります。その子は岐都禰と名付け、その子孫の美濃狐は力が強く、道行く商人からの強取で生計を立てていました。
他方、美濃国の農夫はある日雷神より頭に蛇をまいた男児を授かり、この男児は後に奈良の元興寺の道場法師という僧となり、鬼退治や田に水を引くなどします。農耕には水が不可欠でありますところ、この雷神、ヘビは農耕神を示唆します。この男児にも子孫がおり、美濃狐を調伏します。
ここで、農耕神と狐さんとの邂逅、紐帯が生じます。
キツネさんと水稲耕作との関係
そして、稲荷大神とキツネさんの関連性は以下の理由に基づくものと解されます。
- キツネは巣穴を作るところ、古墳などを流用することがある。そして、山と人里を行き来するところ、稲荷山での祖霊信仰と右の行為態様が山に降臨した祖霊が子孫を訪れるときの態様と類似していた。
- 山の神が田に降りてくると考えられていたところ、山から現れる狐はその先触れとみなすことができた。
- キツネの尿は害獣を遠ざけると信じられていたところ、田の周辺には狐を祀る祠が設けられることがあるなど、水稲耕作との関連性が認められる。
上記の祖霊信仰と田の神との関連性に加え、先述のキツネさんと龍蛇信仰(『日本霊異記』が補強)、宇迦之御魂神に対する信仰との関係(三狐)、これらが相互に架橋し、キツネさんと御祭神たる宇迦之御魂神との紐帯が生じたと考えられます。ただし、後述するダキニ天が祀られることにより、その眷属たるキツネさんも神聖視されるようになったと解する余地もあります。

ここら辺はあくまで推認しかできねえ。文献のような証拠がねーからな。