上賀茂神社のみどころ
歴史的観点
上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)」といいます。「別」とは「若」の意で、「若く正気のみなぎる雷」という意味です。雷とは大和言葉の「かみなり」は「神が鳴らす i.e. 神鳴り」に語源を持ちます。雷とは古来より畏怖の対象でした。例えば、菅原道真の怨霊は雷と結びつけられ、北野天満宮に祀られています。
上賀茂神社は、現在の京都の一部を支配していた「賀茂氏」という氏族の祖神たる「賀茂別雷大神(かもわけいかずちのおおかみ)という神様が祀っています。
平安京遷都以前、現在の京都がまだ山背国(奈良から見て山の後ろにあったのでこう呼ばれていました。平安京遷都に伴い、天然の城市のようだったので、「山城国」と改められます。)だったころから存在する、京都最古の神社の一つです。
社伝によると、神代の昔、本殿から見て北北西に位置する神山(こうやま)とよばれる山に賀茂別雷大神がご降臨になり、天武天皇の御代(8世紀)に現在の社殿が整えられたと伝えられます。
また、『山城国風土記』によれば、賀茂川から流れてきた丹塗りの矢(本殿の写真を御参照ください)を玉依毘売(たまよりびめ)が床の上に置いておいたところ、懐胎し、生まれて来たのが賀茂別雷大神です。
このように、元来は賀茂氏の信仰の対象でしたが、平安京遷都後は二十二社として、皇城の鎮護社の一つと鳴ります。
二十二社とは、平安時代の神社の社格で、国家の一大事に際して、朝廷から特別の奉幣をうける神社がこれに当たります。奉幣とは、天皇の命により幣帛を神社などに納めることです。幣帛とは神様への捧げもののことです。例えば、葵祭の幣帛は布です。二十二社のなかで、上賀茂神社(下鴨神社と共に、「賀茂社」と表記されています。)は伊勢神宮、石清水八幡宮に次いで3番目に位置します。(この三社は別格扱いです。)
また、『延喜式(今日でいう法律の施行規則のようなもの)』では名神大社に列せられます。名神大社とは霊験が顕著な神社のことです。
二十二社の制度は室町時代後期には機能しなくなり、奉幣は途絶えます。しかし乍、明治時代になると、勅祭社(祭の際に天皇の勅使が遣わされるもの)が定められ、上賀茂神社もこれに含まれます。葵祭では今日でも勅使が遣わされます。(ただし、行列の勅使代は勅使ではありません。)
現在では、国宝二棟、重要文化財四十一棟を有し、1994年にはその歴史的価値から、世界遺産に登録されました。
御神紋
葵とは『会う「ひ」』という意味で、「ひ」とは神様を表すそうです。(上賀茂神社ホームページより)
上賀茂神社と八咫烏(やたがらす)
賀茂氏の始祖、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が、神武天皇が大和国に入った時、八咫烏に姿を変えて導いたとの神話から、上賀茂神社と八咫烏には深いつながりがあります。(写真は八咫烏のおみくじ)
賀茂建角身命は上賀茂神社の境外摂社、久我神社に祀られています。
建造物
本殿 (国宝)
本殿は流造(簡単に申しますと、屋根の前側がびよ〜んと伸びている造り)の典型として国宝に指定されています。(写真は模型です。上賀茂神社の本殿は撮影できません。)
しかし、上賀茂神社で特筆すべきことは、本殿が二つあることです。正確には本殿と権殿(ごんでん。「権」とは「仮」のような意味です。)という二つの建物があります。
本殿は他の神社と同様に神様が降りてくる建物です。上賀茂神社の場合も本殿は他の神社と同様です。この本殿の左隣に権殿があります。権殿は何らかの理由で本殿が使えない場合に用いられる、仮の本殿のことです。たとえば、式年遷宮の場合、本殿建て替え時には、権殿に神様を安置します。ちなみに、上賀茂神社は国宝に指定されているため、金閣寺の投稿で申し上げましたように、法律上、建て替えはできません。そこで、屋根の葺き替えを持ってこれに替えています。直近の建て替えは1863年です。尚、上賀茂神社の式年遷宮は伊勢神宮に敬意を表し、一年遅れで行われます
権殿は本殿と同様の機能を有するので、構造、調度品にいたるまで、寸分違わず本殿と同じです。
この本殿と権殿は普段の参拝では見えません。写真の門(中門)のところから遥拝します。お正月や祈祷など、特別の機会にのみ、近くまで行けます。
上の写真は後ほどご紹介いたします、白馬奏覧神事の様子ですが、神山号(馬)がいるのは中門の先(中)で、神山号の前に本殿があります。我々もお正月など特別の機会には神山号と同じところまで行けます。
のちほどビデオをご覧になっていただければお判りになるかと思いますが、神山号の前にはお賽銭をいれるところがありますが、これは廊下のようなところの上にあります。(巫女さんはここに座って神山号に大豆をあげています)そして、その先に白砂を敷いたところがあり、そのさらに先に本殿があります。
この白い砂のところは、確か天皇陛下しか入れない場所です。式年遷宮の一環でこの砂を敷くという行事があり、この時、本殿のほぼ真正面に行った記憶があります。おそらく本殿のすぐ近くまで行けるのはこの機会くらいしかないはずです。日本の庭園の原型は、砂(もしくは玉砂利や小石)を敷いて他と区切った祭祀のための場所ですが、ここはそれが保存されている例です。
他にも、京の夏の旅などのキャンペーンの時にも近くまで行けます。
この本殿と権殿には調度品の狛犬(たしか金と銀)が置いてあり、昔都でわるさをしていた狛犬を封じ込めたものであり、扉にはこれらの狛犬の絵が書いてあるのですが、この絵はロウソクの灯りで扉い映った影をなぞって描いたと伺った記憶があります。