2024年最新情報
概説
2024年は特段の事情なき限り、下鴨神社で斎行される予定です。
今年の斎王代決定
葵祭の第66代斎王代は会社員の松浦璋子さんという方に決まりました。
斎王代御禊の儀 概観
斎王代御禊の儀(さいおうだいぎょけい/ごけいのぎ)とは毎年5月15日に催行される葵祭に参加する斎王代が禊を行う儀式です。葵祭に先立つ5月4日に隔年で上賀茂神社、若しくは、下鴨神社で行われます。令和4年たる2022年は上賀茂神社で行わる予定でした。
斎王代とは「斎王の代わり」という意味です。毎年京都に所縁のある未婚女性の中から選ばれます。斎王とは、かつて天皇の代わりに賀茂祭(今日の葵祭のこと)に奉仕した主に内親王などの皇女から選ばれた巫女のことです。この斎王が賀茂祭に先立ち、鴨川で行った潔斎を再現したものが斎王代御禊の儀となります。
以下、斎王代御禊の儀につきご紹介します。まずは最初に実際の様子をビデオでご覧ください。
本投稿に記載の開始時間等は変更される可能性があります。必ず、上賀茂神社公式サイトなどで確認してください。
御禊の儀の内容
禊と祓
禊と祓の違いにつきましては、以下のリンクをご参照ください。
上賀茂神社
ここでは、先ほどご覧いただいた、上賀茂神社で行われる御禊の儀の様子を用いて解説します。
斎王代が手を浸している流れは、上賀茂神社の境内を流れる、奈良の小川という川です。この川は、御物忌川と御手洗川という二つの流れが、少し上で合流したものであり、これらの流れが結界を構成しています。後ろにある建物は土屋(つちのや)といいます。上賀茂神社の神事に際する禊はここで行われます。
斎王代はこの奈良の小川に手を浸し、身を清めます。御禊の儀には、斎王代のほかにも女人列の構成員も参じますが、奈良の小川で潔斎を行うのは斎王代だけです。
次に女人列一同は橋殿という、奈良の小川をまたいで建てられた建物に移動します。ビデオだと少しわかりにくいかもしれませんが、斎王代以下、全員橋殿の上にいます。ここで全員、形代を用いて解除します。我々が夏越しの祓などで行うものと同じ方法です。他の人は紙の形代ですが、斎王代のものだけ黄蘗(きはだ/おうばく)の木で作られています。
下鴨神社
下鴨神社の場合、井上社の前にある、御手洗池というところで行われます。
このテントが張ってありますが、ここが関係者の席となり、パイロンが置いてあるところがプレス用の場所になります。一般人が見学する場合、写真のさらに左手のところからになります。
撮影隊は斎王代が手を池に浸す場面の撮影を優先した結果、全体像を収めることはできませんでした。一般向けの場所はかなり狭いので、いかれるのでしたら、それなりの覚悟が必要かと思われます。10時スタートで神事などが行われたのち、御禊の儀となります。斎王代が手をひたすのは、11時過ぎになります。
終了後は神服殿というところに移動し、撮影が行われます。
開始時間は10時。無料だぜ。
葵祭の斎王代と斎王の歴史的意義
斎王とは?
斎王とは神の御杖代(みつえしろ。神や天皇の杖となって助ける者のこと。杖が依代になると考えられたことに基づく)として、祭祀に奉仕した未婚の皇女のことを指します。歴史上、伊勢神宮と賀茂祭にしか奉仕した例はありません。(両者を区別するため、伊勢神宮に奉仕する斎王は斎宮と呼ばれます。)
賀茂祭では810年から齋院(さいいん/いつきのみや)と呼ばれる斎王の制度が始まります。これは『賀茂皇大神宮記』によると、嵯峨天皇が薬子の変に際し、平城上皇に勝利すれば、王城鎮護の社たる賀茂社に皇女を奉る旨、祈願したことが始まりとなっています。の斎王は天皇陛下が即位すると占いで選出され、譲位、もしくは崩御するまでその役目を果たしました。
『延喜式』には”凡天皇即位。定賀茂大神斎王、仍簡内親王未嫁者卜之。”とあります。
斎王は選出されると御所内の「初齋院」という施設が設けられ、最初の潔斎が川のほとりで行われます。以降、この初斎院で毎日潔斎し、毎月朔日には賀茂社の神様を遥拝するという生活を3年間送りました。
紫野斎院
その後、野宮という院(現在の櫟谷七野神社「いちいだにななのじんじゃ」の周辺と言われます。ただし、野宮はその都度壊されたので定かではありません。)に入り、賀茂川で潔斎した後、天皇陛下の代わりに賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社のこと)に参拝しました。
この櫟谷七野神社のあたりにあった斎院は紫野斎院とよばれ、実際の大きさは約120メートル四方くらいで、櫟谷七野神社がある辺りはその西北の一角をしめていました。
写真は現在の櫟谷七野神社です。地図上では簡単にいけそうですが、大きな通りに面していないため、行けば確実に迷います。もし行かれるのでしたら、十分に時間に余裕をお持ちになってください。
ちなみに初代賀茂斎院は「有智子内親王(うちこないしんのう)」という方で、墓所が嵐山の落柿舎の隣にあります。お墓ですので写真の撮影はしません。
御禊の様子
往時、斎王は賀茂祭当日は院を出て南下し、一条大路で勅使の列と合流し、一条大路を東にすすみ、下鴨神社、上賀茂神社の順に参向しました。上の地図の青い枠がおおよその平安京の位置です。赤い鳥居が現在の櫟谷七野神社神社です。そこから南下し、大宮大路から一条大路に入ります(赤い宇宙人マークの場所)。
当時の御禊の様子を詳らかにするものとして、『源氏物語』の「葵」の巻や『栄花物語』があります。
この一条大路は『源氏物語』の「葵」の巻に出てくる車争いの舞台となったところです。ただ、この車争いが起ったのは賀茂祭の日(現在の葵祭で行われる社頭の儀や路頭の儀の日ではないという意味です。)ではなく、賀茂祭の4日前におこなわれる斎王御潔(さいおうごけい)と呼ばれる儀式の日です。車争いとは、六条御息所が御潔の日に参列する光源氏を見ようと一条大路で牛車で陣取っていたところ、葵の上の一行が割り込んできて、恥をかかされてしまうという場面です。この「葵」に記載されている斎王御潔は青い宇宙人マークのあたりで行われたものかと思われます。
ただし、御禊を行う場所は陰陽師がその都度占って決めていたので、鴨川沿いの広範囲に存在しました。記録によれば、上は現在の河合社の近く、下は六条の辺りと広範にわたります。
この斎王御潔は斎王をみることのできる数少ない機会だったので、貴族はもちろん、一般人や地方から上京してきた見物人などでごった返し、乱闘などに発展することもありました。この様子は清少納言の『枕草子』にも記載されています。この斎王御潔は今日の斎王代禊の儀に相当します。現在の斎王代禊の儀は手を川につけるだけですが、伊勢神宮に奉仕した斎宮は桂川に身を浸して御潔をしていたそうです。
斎王の御禊の様子は『年中行事絵巻』によるとこんな塩梅です。川辺に幕(3)で区切った一角を作り、その中に帳舎のようなもの(1)をたて、その中から、斎王やたぶん采女などがいることを表す裳のすそのようなもの(2)がでています。松明(4)があることから、夕方以降に行われいるようです。賀茂競馬などと同様に、時代とともに時間がずれ込んできたのかと思います。(5)は神官でしょうか。前に台のようなものがあります。
もとの写真は宮内庁書陵部のデジタルアーカイブで閲覧することができます。
現在の斎王代
この斎王の制度も鎌倉時代には途絶えてしまい、その後、1956年に斎王代として復活しました。斎王代の「代」とは代替とか代わりという意味です。現在では皇女ではなく、京都に所縁のある一般の未婚女性が選ばれ4月に発表されます。2019年は、負野李花さんという会社員の方が選ばれました。今年は天皇陛下が即位されますので、令和最初の葵祭となります。
下鴨神社に行けばオレたちも斎王代になれるぜ
下鴨神社基本情報
下鴨神社へのアクセス
JR京都駅から
京都市バス4号系統で、下鴨神社前バス停下車。徒歩3分。
京阪から
京阪出町柳駅から徒歩5分。
阪急から
阪急河原町駅で下車し、四条河原町バス停から京都市バス4号系統で、下鴨神社前バス停下車。徒歩3分。