御旅所とは?
御旅所とは神幸祭に際し、一般には神様をお乗せした神輿が滞在する場所を指します。
祇園祭においては元来は大政所御旅所(東洞院高辻上る)、少将井御旅所(錯綜する諸般の事情により記載せず)の二か所がありましたが、1591年に四条寺町に移転し、その後、1912年に四条通の拡張に伴い、少し南に移転し現在に至ります。
大政所御旅所には中御座(素戔嗚尊=牛頭天王)、東御座(八柱の御子神=沙羯羅竜王/八王子)、少将井御旅所が造営されて以降は西御座(櫛稲田姫命=頗梨采女神輿)
神仏習合時は神輿と御祭神の対応が以下のように現在とは異なります。
神輿の名称 | 神輿の屋根の形 | 旧御旅所 | 江戸時代まで | 明治時代以降 |
---|---|---|---|---|
中御座 | 六角形 | 大政所御旅所 | 牛頭天王 | 素戔嗚尊 |
東御座 | 四角形 | 大政所御旅所 | 沙羯羅竜王/八王子 | 櫛稲田姫命 |
西御座 | 八角形 | 少将井御旅所 | 頗梨采女 | 八柱御子神 |
後述しますように、大政所御旅所が造営され、以降、神幸すべしとの円融天皇の宣旨により、以降、祇園社(神仏習合時の八坂神社の名称)御祭神が神輿に乗られ、洛中に滞在されることが慣行となりました。右の慣行は中断はありましたが、現在まで維持されており、本稿執筆時の2024年はちょうど1050年目に当たります。
大政所御旅所
東洞院高辻に大政所御旅所が設けられたのは円融天皇天延二年(974年)です。同年5月に同地在住の秦助正という人物の夢に悪王子(悪いという意味ではなく、強いとか程度が著しいといったいみ)が現れ、同地に神幸すべく奏上せよとの神託がありました。
翌日、裏庭に塚があり、そこから伸びている雲の糸をたどると祇園社(当時の八坂神社の名称)にたどり着きました。助正が顛末を奏上すると、円融天皇も同じ夢をご覧になっており、助正の居宅を祇園社の御旅所とし、東洞院方四町を御旅所の土地として寄進され、神殿をの造営を指示されました。尚、この謂れは後述する勅板に記載されています。
御旅所の造営に際し、老翁が忽然と現れ、指示を出すなどしていましたが、完成とともに姿を消しました。この老翁が寄りかかって食事をしていた石は神石とされ、御供石と呼ばれ、祭礼に際し神饌を供したとの言い伝えがあります。(現在は行方不明)
この年以降、祇園社(八坂神社)の御祭神の神幸が恒例化したとされています。
現在でも還幸祭に際し、久世駒形稚児に先導された中御座が大政所御旅所に立ち寄り、玉串の奉奠などが行われます。(下のビデオ6:00くらいから)
少将井御旅所
少将井御旅所は、三条天皇長和二年(1013年)、大政所御旅所と同じく神託により頗梨采女神輿は少将井の尼の家の井戸の上に置いたのが始まりとされています。その後、1136年に鳥羽天皇のが勅願により、冷泉東洞院方四町を敷地として寄進されました。井戸の上に据え置くのは、霊水信仰との関連が示唆されます。
現在は御所の中にある、宗像神社にお社が移されています。
すまねえ。跡地には井戸だけ残ってんだけど、フツーの家の一角なんで、どこにあるかは言えねえ
勅板
勅板とは、神輿に先立つ神宝行列を構成する、円融天皇の勅旨が記載される板です。「御札」などともよばれ、祇園祭で棒持されるようになったのは戦国時代以降と考えられています。現在のものは縦約180cm、横約20cm、厚さが約1cmの大きさです。
神幸祭から還幸祭までの間、かつての大政所御旅所に相当する西御殿(向かって右側)に安置されます。(下のビデオ10:00~10:30あたり)
「感神院(祇園社の別称)政所」と記載された下に三行に亘り、先ほどの大政所御旅所の謂れが語られます。
以下、原文だよ
- 円融院御宇天延二季五月下旬比、以先祖助正居宅高辻東洞院為御旅所、可有神幸之由有御
- 神詫之上、後園有堺塚、蛛糸引延及当社神政、所司等恠之、尋到通助正之宅畢、助正感夢去七々日可
- 有鎮坐之由所司等経 奏聞之処、以助正為神主、以居宅可御旅所之由、致宣旨
裏面には「天延二年六月七日」と記載されています。
元来は「御玉文」とよばれていましたが、現在のものはその写しであり(ただし、文言は若干異なる)、江戸時代中期のものと推定されています。