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この記事には英語版があります。
牛頭天王とは?
概要
牛頭天王とは、祇園社、即ち現在の八坂神社の御祭神であった我が国独自の神仏習合神です。神仏習合とは我が国古来の神祇体系と6世紀に伝えられた仏教体系が融合し、新たに再構築された現象を指します。
牛頭天王は病、殊に疫病退散のご利益があると伝えられ、明治元年に神仏分離(判然)令が発せられるまでは我が国で遍く信仰されていました。本稿ではこの牛頭天王と疫病やコロナに対するご利益につきご紹介します。
『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』
牛頭天王につき言及する書物は多々あり、もっとも引かれるものは、『備後国風土記』かと思いますが、本稿では、『簠簋内伝(正式には『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)。以下同じ。』に依拠しながら解説します。
これは、以下の理由に基づきます。則ち、『簠簋内伝』とは、安倍晴明が記したとされていますが、実際は祇園社の祠官(しかん。神官のこと)となった安部氏に系する者が著したと目されること、並びに、祇園社の詳細につき記述しているからです。
『簠簋内伝』てのは陰陽道の秘伝書だ。八坂さんに行くと、以前は櫛稲田姫命は歳徳神云々て書いてあったのよ。歳徳神てのは陰陽道でその年の福を司る神様だ。ここでは深入りしねえけど、八坂さんと陰陽道の間には深い関係があるんだ。つーか、神道、仏教、陰陽道、道教が密接不可分になってんだけどな。
下のビデオを参照してみてくれ。このビデオは八坂さんと地下でつながっているといわれ、祇園祭発祥の地でもある神泉苑の大晦日の様子で、歳徳神を祀る恵方社をその年の方角に向ける様子だ。興味がある人は授与所で頒布されてる祇園暦という暦を参照してみてくれ。
牛頭天王と素戔嗚尊の習合
『簠簋内伝』によると、”牛頭天王は元来は、北天竺摩訶陀国の大王であり、商貴帝であり、天刑星といい、政娑婆世界に下生して、改めて牛頭天王といった”、とあります。その容貌については、”頭戴黄牛面両角尖猶如夜叉(頭に黄色の牛の面乗せ、角が尖っていて、夜叉のようである)”と記載されています。そして、その容貌故、后がおらず、沙羯羅竜王の娘、頗梨采女を娶りるため、竜宮に向かいます。
なんとなく、素戔嗚尊と似てるよね。
道中、泊まるところがなかったので、裕福な巨旦将来という人に一夜の宿を求めますが、断られます。そこで、兄の蘇民将来という人に頼んだところ、貧しいにも関わらず、快諾しました。その後、牛頭天王は竜宮に至り、頗梨采女を娶り、帰り道に巨旦将来を一族もろとも滅ぼします。他方、蘇民将来に対しては、自分が疫神として再び現れた時にはその子孫と共に守る旨伝えます。
素戔嗚尊と習合の形式的根拠は『釈日本紀』という『日本書記』の注釈書に引用される、奈良時代に編纂された『備後国風土記』逸文(なくなった文書のこと)にあります。これに依れば、帰路で蘇民将来と再会した時に、自分は速須佐雄能神(はやすさのおのかみ)と名乗ったとされますが、実質的な根拠は上記の逸話にあると考えられます。
補足してみんべえか。『日本書記』には、伊弉諾神に追放された素戔嗚尊がされて、他の神様に泊めてもらおうとして、断られる話がでてくんのよ。ここで、『備後国風土記』の逸話が引かれてて、”祇園社本縁”である旨述べてんのよ。まー似てるからだべな。
また、『祇園牛頭天王御縁起』によると、牛頭天王の本地は薬師如来であるとされます。
ここから、牛頭天王ー素戔嗚尊ー薬師如来という紐帯が導出され、実際にそのように信仰されていました。
この紐帯について話すと長くなる上、循環論法みてえになってスゲーわかりにくいのよ。だからここではそういう事実があったことだけ記載しておくぜ。
祇園社時代には脇侍たる日光菩薩像と月光菩薩像も祀られていたんだよ。
ところで、牛頭天王とは「疫神」です。「疫神」とは疫病をもたらす神のことです。古、殊に平安時代には病気はどこかからやってくる疫神や不慮の最期を遂げた人の怨霊などがもたらすものと信じられていました。前者の例が牛頭天王で、後者の例ですと、北野天満宮の御祭神たる菅原道真公などがあげられます。
牛頭天王がいつから祇園社に祀られるようになったかは断言できません。八坂神社社伝によれば、飛鳥時代、斉明天皇の御代に素戔嗚尊の御神霊をお迎えしたとあります。
他方、室町時代に編纂された、『二十二社註式』という、朝廷が定めた二十二社という社格を冠する神社の注釈書では祇園社のところで、935年に発布されたの太政官符(太政官が発する今日の通達のようなもの)によると、”天神”が祀られていたとありますが、これが牛頭天王かどうかは、はっきりしません。
『備後国風土記』には牛頭天王は武頭天神とも称されるとありますから、もしかしたら牛頭天王だったのかもしれないということです。
明確に記載されているのは、1150年代に編纂された、『本朝世紀』という歴史書です。これによると、1070年に牛頭天皇(このように記載されています。)の(像の)御脚が焼損した旨記載されています。この時点で、牛頭天王が祇園社に祀られていたことはほぼ確実といえると考えられます。
うろ覚えなんだけどよー、確か祇園社には黄金の牛頭天王像か薬師如来像があったんだけど、だれかがそれを売り飛ばしたんだ。で、売り飛ばした罰当たりは淀川に放り込まれたはずだ。今文献確認したんだけど、見当たらねえ。でもどこかで読んだのは間違いねえ。
久世駒形稚児が身に着けてる御神体も質入れされたことがあるみたいだし、素戔嗚尊のodysseyはなかなか終わらなかったんだね。
疫神としての牛頭天王とコロナに対するご利益
牛頭天王と疫病
『簠簋内伝』には、”我末代成行疫神八王子眷属等國乱入”とあります。これは牛頭天王が後に后となる頗梨采女を娶った帰路、往路で宿を貸すことを拒んだ巨旦将来を滅ぼした後、かつて一夜の宿を貸してくれた蘇民将来に言われた言葉です。(原文では誓願と記載されています。)「私は疫神となり、八王子(子)や眷属と共に、(蘇民将来にあげた夜叉国)に乱入します」という意味です。そして、疫病から逃れたければ、五節の祭礼を行うべき旨言われます。
尚、『備後国風土記』では、ここで茅の輪を腰につけて入れば、蘇民将来の子孫とみなして守る旨、告げられます。この逸話に依拠したものが、茅の輪くぐりや茅の輪のお守りになります。
先程申し上げましたように、牛頭天王は「疫神」であり、疫病をもたらす神です。当時の人々は、この疫神がやってきて、疫病をもたらすと信じていました。故に、この疫神にいなくなってもらえば、疫病は退散すると信じていました。そこで、この疫神たる牛頭天王を追いやるべく始まったのが祇園御霊会、則ち、現在の祇園祭です。
一寸考えてみてくれ。今の八坂さんは平安京の外にあんべ?で、牛頭天王は外国から来た神様だべ?二つ合わせるとよー「どこかからやってくる疫神」として容易に擬制できんべ?あん?
祇園祭の意味の記事でも触れていますが、このどこかに追いやれれる疫神が時の経過とともに、祀られる対象となります。これは蘇民将来のように貧しいにも関わらず助けてくれた人は救ってくれる、若しくは強大な力を持つ牛頭天王を崇めれば、その威力を以て守ってくれると信じたからかと推認されます。当時の一般人の内心を窺知することはできませんが、おそらく、後者の方が自然なような気がします。
なんつーかよー、当時の一般人が文献漁って得た膨大な知識を背景に論理則に従って判断とかは多分ねーべ?有体にいうと、「なんとなく」そうなったんじゃねーかな?
追儺式の方相氏なんかも容貌が怖いから気がついたら追う側から追われる側になっちゃったからね。
新型コロナウイルスに対するご利益
少し長くなりましたが、このような前提があり、現在の八坂神社の御祭神たる素戔嗚尊のご利益の一つとして、疫病に対するものがあります。令和2年/2020年は、所謂コロナ禍の中の祇園祭では神輿渡御や山鉾巡行は行われませんでしたが、御祭神が御旅所に滞在されたのは右の理由によります。また、茅の輪がほぼ通年で設けられていたことも同様の理由によります。
ビデオでご覧いただけるように、神籬を介して御旅所に渡られました。
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