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京都北野天満宮のみどころ、七不思議を解説

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北野天満宮の歴史と菅原道真と受験の効果

北野天満宮とは?

北野天満宮西暦947年に創建された神社です。神社とは、神道(しんとう)という日本固有の宗教の祭殿です。北野天満宮には菅原道真という歴史上の人物が祀られていて、現在は全国の天満宮の総本社として、天神信仰の中心地となっています。天神信仰とはもともとは天神(雷神)に対する畏怖や恐れの念のことですが、今日では御祭神の菅原道真と結びつけられています。

菅原道真が御祭神と申し上げましたが、神社にお祀りされている神様にはいくつかの種類があります。
大雑把に申しますと、日本書紀や古事記と行った古典の中に登場する神話上の神様(天照大神など)、もともと日本にいた神様(猿田彦神など)、習合神(牛頭天王と素盞嗚尊など。神道と仏教が折衷してできた宗教の一態様。かつての八坂神社など)、人格神(実在の天皇・公族などの実在の人物を神様として祀ったもの。平安神宮の桓武天皇など)に分けられます。

北野天満宮にお祀りされている神様は菅原道真という歴史上の人物なので、人格神を祀った神社です。人格神とは、非業の最期を遂げた人の祟りを鎮めるためや、優れた功績を残した人物の功績を讃えるためなどに祀られた神様のことです。北野天満宮の菅原道真の場合、前者の意味合いが強いのですが、後者の意味合いも含まれています。

それでは、次に、この菅原道真についてみてみましょう。

菅原道真と御霊信仰と受験の効果

菅原道真については、学問の神様として知られています。

菅原道真は祖先を天穂日命(あめのほひのみこと。天照大神の勾玉から生まれた農業や産業の神様。北野天満宮では本殿の裏側に祀られています。)にもつ学者の家系に生まれました。菅原道真の祖父・父・菅原道真はいずれも文章博士(もんじょうはかせ。漢文や歴史を教授する官職)から公卿(くぎょう。後述します太政官の幹部のこと)にまで出世しています。
幼少から詩歌に優れ、6歳で和歌を詠み神童として知られます。また、弓にも長けており、文武両道に優れた人物でした。その後、文章博士に任ぜられます(民部少輔という税務を扱う官職と兼任)。この文章博士というのは、儒学以外の漢文の解釈を行ったり、それらを教授する役職で、官僚養成機関の先生のようなものなのですが、天皇や摂関に対しても教授したり、漢詩の代詠を行っていました。このため、当時の権力中枢の近くにいることができました。中流貴族の菅原家が三代に亘り公卿を排出しているのはこのためです。菅原道真も宇多天皇の信任を得て、右大臣にまで出世します。

右大臣とは太政官の役職です。太政官とは、当時の朝庭の最高機関のことで、現在の立法・行政・司法が一体化したような機関です。現在では三権は分立しているので例えられませんが、裁判ができる内閣のようなものでしょうか。
この太政官は太政大臣、左大臣、右大臣とその他の役職で構成されます。太政大臣は名誉職で、常設ではありません。相応しい人物がいた時などに任命されます。実質的には左大臣が最高位です。右大臣は左大臣を補佐する役割です。昔の官職のように聞こえますが、明治時代に内政制度が導入されるまで存置されていました(最後の右大臣は岩倉具視)。

その後、菅原道真は左大臣、藤原時平に醍醐天皇を廃立しようとしたとの虚偽の告発により、無実の罪で太宰府(現在の福岡県にあった外交と防衛を担当する国の機関)に左遷され、その後病死してしまいます。これは藤原家が政敵を排除していく過程の一つです。

その後、菅原道真は天満自在天神(てんまんじざいてん)として信仰されるようになり、藤原時平など、菅原道真を左遷に追いやった関係者が次々に急死し、御所(天皇の邸宅のこと。現在の京都御所とは違う場所にありました。)の清涼殿に落雷があると、菅原道真の怨霊は雷神と結びつけられようになります。当時、現在の北野付近には火雷神が祀られていたところ、この地に北野天満宮を建立し、菅原道真公の怨霊を鎮めようとしました。これが北野天満宮の始まりと言われています。

このように、政治的に失脚した人の怨霊が災禍をもたらす場合に神として祀り、鎮めることにより、逆にその力で人々を守ってもらおうとすることを御霊信仰といいます。この考え方は平安時代にはよく見られるもので、例えば、同時代に始まり今日まで続く祇園祭もこの考えに基づき発祥し、現在も行われています。この御霊信仰に則ると、ものすごく頭の良かった菅原道真公の御霊を祀ったので、そこかしこに雷を落として人々を畏怖させるくらいのすごい力で我々を守ってくれる、すなわち各種受験などにてきめんの効果があるというわけです。単に頭が良い神様にお願いするから、というのとは少し理論が異なります。

室町時代になると、座の独占権を巡り、幕府と対立し、攻撃を受け、北野天満宮は焼失します。座とは寺社が管理した同業者の同業者の組合のようなもので、ヨーロッパでいえばギルドのようなものです。祇園祭の山鉾というのは、室町時代に発達したものですが、これらを出す地区というのも、八坂神社(当時は祇園社というお寺)が管理していた座が基になっています。

室町時代と申しますと、足利義満による武家政権や金閣・銀閣、応仁の乱などに焦点が絞られがちですが、商工業者の社会進出が促された時代でもあり、このように祇園祭の山鉾など、現在も続くもののはじまった時代でもあります。殊に、京都と申しますと、平安京が基礎になっているように錯覚しますが、実際にはこの時代に起きた応仁の乱でいったん白紙になり、その後の基礎が作られています。

平安京と現在の京都

まずは平安京を見てみましょう。上の地図をご覧ください。現在の京都と平安京を重ね合わせてあります。

水色の枠で囲んだ部分が平安京の大内裏です。大内裏とは天皇の居所と官庁がある区域だとお考え下さい。青い枠で囲んだ部分が平安京です。地図上右半分を「左京」、左半分を「右京」と呼びます。これは大内裏から南向きにみて左右を区別していることによります。

この大内裏があった場所は現在では、住宅街になっていて、平安京の面影はありません。

朝堂院

大内裏がどのようなものだったか実際に見てみたい場合、平安神宮にいくことをおすすめします。平安神宮は大内裏の中にあった朝堂院という建物を5/8にスケールダウンしたものです。

次に、現在でも残っている平安京の名残を見てみましょう。

 青いお寺マークをご覧ください。現在の東寺です。

伽藍などの建物の位置や規模などは平安京の時代と同じ場所にあります。平安京には、造営当初は、この東寺と西寺という二つのお寺しかありませんでした。(ただし、六角堂のように平安京建設以前からあった寺院を除く)

なぜかと申しますと、平城京時代にはお寺の勢力が拡大し、政治に干渉するようになっていました。そこで、桓武天皇は平安京造営にあたり、お寺の勢力を削ぐために、新たな寺院の建立はこの二つしかみとめませんでした。

東寺夜桜ライトアップ2017

その後、15世紀に起こった火災で建物のほとんどを焼失してしまいます。有名な五重塔も徳川家光が再興しました。

神泉苑の桜2017

次に赤い宇宙人マークをご覧ください。ここは神泉苑(しんせんえん)というお寺です。平安京造営当初は、同じ名前の禁苑(きんえん。天皇のための庭園)でした。二条城建設の際に大分削られてしまいましたが、現在でも平安京造営時代と同じ場所にあります。あまり馴染みがなく、ご存じないかもしれませんが、お花見と祇園祭発祥の地です。

これら二つが現存する主要な平安京の名残となります。

ところで、平安京と申しますと、左右対称で碁盤の目のように仕切られた都市を想像します。しかしながら、そのような状態が続いたのはせいぜい最初の100年くらいです。右京(地図上の平安京の左半分。)はもともと湿地帯で水はけが悪かったので、だんだん人が住まなくなり、住人は左京側(地図上右半分)に移動してしまいました。

上の地図をご覧ください。平安京に加え、御土居を示してあります。赤い範囲が御土居です。先ほど申し上げましたように、人口は右京から左京に移動していきましたが、その後、左京の北側と東側に広がっていき、平安京の構造は徐々に崩れていきました。

御土居が出来たのは、豊臣秀吉が上洛した後です。御土居はおそらくは、聚楽第(黒い枠の部分)を囲み、京都の内と外を一応区別するために構築されたと考えられます。当時の京都は応仁の乱で焼けて荒廃し、南北が総構(そうかまえ)と呼ばれる土手のようなもので分断され、道(現在の室町通)で繋がっている状態でした。室町時代には日本最大の商業都市だった京都も、100年に亘る戦いで荒廃し、残った都市部(中心部)はわずかに黄色で囲った部分とその周辺(これは厳密なものではありません)そこで、秀吉は京都の範囲を拡大すべく、この二つをつなげてさらに広い区域を御土居でかこんだようです。

この御土居の範囲が現在の京都の賑やかな場所と概ね一致し、かつ、現在の京都の原型のようなものになっています。例を挙げます。地図を拡大していただくと赤い線が出てきますが、これは寺町通という通りの一部です。この寺町通とその西側にある新京極通に恐らくおみやげを買いに行かれるかと思います。この通りは名前の通りお寺が並んでいます。これは秀吉がこの通りにお寺を移転させたことによります。例えば赤いお寺マークは現在の本能寺ですが、もともとは赤い宇宙人マークの場所にありました。なぜお寺を強制的い移動させたかと申しますと、徴税を容易にするため、または、お寺を御土居の近くに並べて、敵が攻め込んできたときの防御壁にするため、お寺を中心として組織化された住民の蜂起を防ぐためなどと言われています。

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