祇園祭の「祭」とはなにを意味するのか
「祭」とは元来、まつろう、若しくはまつるが動詞になったもので、「神仏や祖霊などに供物をささげるなどして、鎮魂、祈願、慰撫、感謝などをなすこと」を意味します。我々の祖先は人知を超えた力、若しくは右の発露としての現象、則ち自然や自然現象などに人格を擬制することにより、畏敬を抱いてきました。例えば、光や温かさ、豊穣をもたらしてくれる太陽に対する念がこれに該当します。
なんで慰めたり祈願したりするかっつーとよー、自然やらに人格を擬制してんのよ。するとよー、なんかいいことしたらいいことで返してくれる、なんかよくないことしたらよくないことで返してくるってなんべ?これが基本原理として機能してんのよ。
少し抽象的になりましたが、祇園祭の趣旨を理解するにはこれらが根幹となりますので、ご理解の上、次章にお進みください。
これがわからなければ、祇園祭は理解できませんよ~
祇園祭が始まった頃の京都(平安京の様子)
祇園祭が始まった時期については、後ほど改めて論じますが、通説的見解では西暦869年となっています。時代は清和天皇の御代です。平安京と申しますと、理路整然と区分けされた都市といった印象をお持ちかもしれませんが、当時はし尿や生活排水などが処理しきれず、かなり劣悪な環境でした。高温多湿(もちろん現在と気候はことなります)な夏季には、食中道、天然痘、コレラ、インフルエンザなどの疫病が発生します。また、鴨川は勾配が急であり、梅雨など降雨が激しくなると、度々氾濫しました。市内に蔓延している、疫病の原因となる汚物が拡散され、所謂修羅場になります。
おそろしや~
平安時代の人々は現代のような発達した医学の恩恵に与ることはできません。当時は疫病などの原因は、怨霊の仕業と考えました。殊に、政治的に失脚した人など、不慮の最期を遂げた人の怨霊、若しくはどこか別の場所からやってきた疫神の仕業と考えました。
そこで、平安時代には、怨霊を退け、疫病の終息を願うべく、御霊会(ごりょうえ)という行事が開催されました。
御霊会(ごりょうえ)とは?
御霊会とは、怨霊・疫神を慰め、どこかへ送り出す行事です。最も古い御霊会の記録(最初の御霊会という意味ではありません)は『日本三代実録』という、平安時代に編纂された歴史書に記載されています。これによると、西暦863年(貞観5年)、5月20日に神泉苑で御霊会が行われたとあります。現在でも神泉苑というお寺がありますが、平安時代の神泉苑とは禁苑と呼ばれる天皇専用の庭園でした。(両者は同じ場所にあります。)この時の御霊会では、崇道天皇(早良親王の追称)や橘逸勢など六人の霊が祭られました。神泉苑では花が飾られ般若心経などが読経され、雅楽の演奏、雑伎などが催されました。さらに、神泉苑の四方の門を開放し、都の人々が入ることを許したとあります。ここでは「慰める」点のみが確認できますが、994年編纂の『日本紀略』によれば、その後に船岡山で行われた御霊会では神輿に移した疫神を文字通り、神輿ごと川に流して難波の海に送り出したとあります。この時点では神泉苑御霊会を含め、御霊会は必要性が認められる限り、不定期に開催されていました。
このように、当初は怨霊・疫神は送り出される対象でしたが、時を経るにつれ、強大な霊力を持つこれらを崇め奉ることにより、その霊力で守ってもらおうとする信仰が生まれてきます。それぞれ、対象が怨霊の場合は御霊信仰、疫神の場合は天王信仰と呼ばれます。
なんで御霊会を庭園でやるなんてなんかへんな気がすんべ?でもちゃんと理由があんのよ。まだヘビ文字版しかなくてすまねーんだけど、詳細は以下のリンクの1ページ目を参照してくれ。
貞観5年の御霊会は神仏習合の顕在化の端緒としても重要だよ。気になった人は以下のリンクを参照してね
この貞観の御霊会では、神泉苑を開放し、一般の人が技芸などをかましたんだけど、この時点で既にして、なんつーかcitoyenが積極的関与が看取されんのよ。
八坂神社の御霊会
現在の祇園祭は八坂神社が行った御霊会が始まりとされています。始まった年は9乃至10世紀と諸説ありますが、本投稿では、『祇園社本縁録』に依拠し、八坂神社が採用する、貞観11年、(西暦869年)に疫病が流行したので、神泉苑に66本の矛を立て、神輿を送ったとする説に依ります。先程申し上げました様に、当時の夏の京都は盆地で高温多湿であったこと、また現在と異なり上下水道が不備で両者が混同するなどの理由で、天然痘や赤痢、インフルエンザなどの疫病が流行していました。また、全国でも同様に疫病が流行、東北では地震が起こるなど、日本中が災害に見舞われました。
当時を概観してみんべえか。まず8世紀末くらいから全国で火山が噴火しまくってたのよ。富士山なんか802年に噴火、864年にもう一発大噴火だ。しかもこの年は阿蘇山も噴火して、さらには867年にも噴火よ。しかも869年には今日の東北で大地震が発生、津波の被害も甚大だったのよ。更に貞観年間は大雨や、それに付随する洪水が頻発してたのよ。鴨川もあふれて洛中には汚泥が入ってきて衛生状態が悪化、感染症が大流行よ。雨が続くと作物にも影響がでんべ?流行り病やら飢饉やらでもうやってらんねー状態になんのよ。しかも、平安京っつーのは右京は湿地が多く、人が住むのには適してなかったから、左京に人口が集中してて、ここに鴨川が氾濫した日にゃオメ、家はプカプカ浮いていろんなもんが混ざってもー修羅場の中の修羅場よ。
上記の疫病などの流行は(貞観5年と同趣旨であると解されるので)早良親王など政治的に失脚した人の祟りだということから、祇園社司卜部日良麻呂(うらべのひらろ)が禁苑たる神泉苑に当時の国の数である66本の矛を立て右を擬制し、それらの矛に悪霊を乗り移らせて、祇園社からは勅に奉じ三基の神輿を送り、疫病退散を願う「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が行われました。これが後に疫神たる牛頭天王を祀るようになり、今日に至ります。
冒頭でヤギが「自然や自然現象に人格を擬制」って言ってたべ?これはよー、洪水みてえな自然現象が発生すると、「なんらかの神様や怨霊が怒ってる」とか「祟ってる」みてえな帰結になんのよ。
例を挙げると葵祭あんべ?あれはよー、賀茂の神々の祟りで風水害が発生、五穀が実らないからっつーんで始まったのよ。ここでは「祟り」っつーのは「祭祀などが適切に行われないので社会全体が適切な状態にない」と拡張解釈されてんだけどな。
で、それまでは、「祟る」のは人格が擬制された自然・自然現象たる神だったんだけど、貞観5年の御霊会では初めて実在した人物が「祟る」と見なされたのよ。
ところで、先ほどご紹介した御霊会では般若心経を唱えるなど、仏教色が濃いものであることがお分かりかと思います。今日の八坂神社は神社であり、この点につき疑義が生じるかもしれませんので、ここで、当時の八坂神社について概観します。
八坂神社は明治以前は「祇園社」、「祇園感神院(ぎおんかんじんいん)」などと呼ばれた仏教寺院であり牛頭天王が祀られていました。この「祇園」という名称の由来には諸説ありますが、牛頭天王は祇園精舎(インドにあるお寺の名称)の守護神であるり、その牛頭天王を祀っているから、藤原基経(太政大臣ののち、日本で初めて関白になった公卿)が居宅を寄進した行為の態様が釈迦に祇園精舎を寄進した須達長者のものと類似しているから、などと言われます。現在でも八坂神社では、祇園社時代の名残が散見されます。上の写真は西楼門を入ってすぐのところにある手水舎のものですが、「感神院」と書かれているのがお分かりになるかと思います。
牛頭天王が祀られているということは、先ほどの例によれば、祇園社(以下、明治時代まではこの名称を使います)は天王信仰に基づき、疫神たる牛頭天王を祀っていたことになります。では、牛頭天王とはいかなる神だったのでしょうか。次章で詳らかにしていきます。
牛頭天王と御霊会の核心・本義
牛頭天王とは神仏習合神です。天竺では商貴帝でしたが、人間界では牛頭天王(武塔天神)に生まれ変わったとされます。神仏習合の時代には、薬師如来が本地であり、素戔嗚尊の本地であるとされました。明治時代までは実際に薬師如来像がまつられており、現在では素戔嗚尊が祀られています。ちなみに、この薬師如来像は廃仏毀釈を逃れ、現在は八坂神社から少し上にある、大蓮寺というお寺に安置されています。(非公開)
牛頭天王が疫神とした祀られるようになったのは、以下の理由によります。(実際は複雑でとても長くなりますので、簡単に説明するため右のような表現をとり、かつ以下の解説にとどめます。)
『釈日本記』に引用された、『備後国風土記』の逸文によると、牛頭天王(武塔天神)妻を娶るため、南海に旅をしている最中、日が暮れたので、一夜の宿を求めた時、裕福な巨旦将来という人は断りましたが、兄の蘇民将来という人は貧しいながらも牛頭天王をもてなしました。
何年か後、同地を訪れた牛頭天王は巨旦将来一族を滅ぼしましたが、蘇民将来の娘には、自らが速須佐雄能神(はやすさのをのみこと)であること、並びに、蘇民将来の子孫である旨を示す茅の輪をつけていれば疫病から守ることを伝えました。
ここから、以下が導かれます。
一、牛頭天王はどこか別の場所からやってきた神であり、巨旦将来一族を滅ぼすくらい、とてつもない力を持っている。これらに民間信仰などが加わり、疫病をもたらす疫神としての畏怖が生ずる。
二、他方、親切にしてくれた蘇民将来の子孫は守ってくれる、i.e., 畏敬を以て奉れば、守ってもらえるという信頼が生ずる。(若しくは正しい行いをすれば守ってくれる)
こららが相まって、疫神をどこかに送り出すという行為から、崇め奉って守ってもらうという御霊会の核心の変容と合致し、現在の祇園祭の趣旨となっています。
ヤギがなんか難しいこと言ってるから、オレが簡単に説明するぜ。
牛頭天王は怖え。でも親切にしたら守ってくれる。つーことはなんとかして守ってもらえばこっちのもんだべ?じゃあいっちょ祭でもかましてみんべーか?
この理論に則り、八坂さんのご祭神に病気から守ってもらうべく、祇園祭をするってことだ。
さっきオレが人格を擬制することにより、「なんかいいことしたらいいことで返してくれる、なんかよくないことしたらよくないことで返してくる」って言ったべ?背後にはこの考え方があんのよ。
牛頭天王と疫神についてさらに詳しく知りたい人は以下のリンクを参照してね。
各時代ごとの特色
ご覧いただきましたように、今日の祇園祭は祇園社が催した西暦869年の御霊会に起源を求めることができます。令和元年はちょうど1150回目を迎え、令和五年/2023年は1154年目を迎えますが、この間、様々な変遷がありました。そこで、以下では各時代ごとに現在との違いや時代ごとの大きな出来事を概観します。
なんで1,000年以上続いてんのかっつーと、その趣旨もさることながら、時代ごとにaffordできる人(クラス)がaffordしてきたからなのよ。
平安時代の様子
神輿
先ほど申し上げましたが、祇園祭は9乃至10世紀、すなわち平安時代に始まっています。本投稿では貞観11年、(西暦869年)に疫病が流行したので、神泉苑に66本の矛を立て、神輿を送ったとされる御霊会を最初と考えますので、右について考察します。
まず、この時代から現在まで続いているのが神輿渡御です。現在では、八坂神社から三基の神輿が出発し、氏子地区をまわった後、四条寺町にある御旅所に到着、17日から24日までの間、市中にとどまります。最初期の神輿渡御がどのようなものであったのか、詳細はよくわかりませんが、祇園社から神輿が市中に入って行ったことは確かです。当時は現在の八坂神社のある場所は、平安京の「外」にあります。御霊会のところでご紹介した通り、疫神は本来、どこかへ送り出すものでしたので、神輿をどこかに流したのかもしれませんし、市内に存置して、その後、祇園社に戻ったのかもしれません。
明確になるのは、西暦974年に御旅所ができたことです。『祇園社記』によれば、高辻東洞院の助正という人の私邸を御旅所にするようにとの御神託が下ったとあります。御旅所ができたということは、神輿に乗った神をどこかに送るのではなく、市中にあって守ってもらうという御霊会の本質に変化があった証左と言えます。これは、円融天皇の勅命によるものです。この勅命は、974年移行、毎年神幸を行うべしとするものです。
この勅命が記載されているとされるのが、神幸祭、並びに還幸祭の際、中御座を先導する神宝奉持列でめにすることができる御勅板(勅裁御板)です。写真の傘に下の人がもっている橙色の細長いものが御勅板です。神輿が御旅所に滞輦する間、御旅所の右側にある冠者殿社に収められます。
令和2年は神輿渡御がありませんでしが、代わりに榊を神籬として馬の背に乗せ御祭神を御旅所にお遷ししました。この際にも御勅板が馬に先立ってすすんでいきました。上記のビデオ2:05辺りからご覧いただければと思います。
現在の御旅所は四条京極にありますが、これは秀吉公により、1591年に移動させられたもので、平安時代には御旅所は二か所にありました。一つは烏丸仏光寺下ルにあった大政所御旅所、もう一つは車屋町夷川上ルにあった少将井御旅所です。当時も神輿は三基あり、大将軍(牛頭天王。今日の中御座に相当)と八王子(今日の西御座に相当)の神輿は前者へ、のこる頗梨采女(はりさいにょ)神輿(今日の東御座に相当)は少将井御旅所に向かいました。これら三基の神輿は行き先ごとに別のルートを取り、御旅所に滞輦し、その後、大宮三条の「列見の辻」でルートを一つにし、三条通りを東に向かい八坂神社に向かいました。ここは一番のみどころだったようで、列見の辻以東は貴族が神輿渡御を見物する場所となっていました。
東御座は少将井という井戸の上にお乗せしたんだよ。
矛
先ほど申し上げましたように、祇園祭の始まりに神泉苑に「矛」を立てたとあります。この矛ですが山鉾の鉾とは異なります。開始当時の矛はおそらくこのような剣矛であったと思われます。御霊会に限らず、祭祀に於いて邪気を払うためのものです。
すこし時代が下がり、平安末期になると、『年中行事絵巻』でみると、人が写真のような矛を手で持って神輿と一緒にあるいています。これは神輿がすすむ先の邪気を払う目的であると考えられます。現在でも、同様の矛を中御座を先導する神宝行列の中で見ることができます。
これが発展して写真のような矛になったと考えられます。江戸時代の『拾遺都名所図会』という、『都名所図会』の続編の絵でみると、やはり、このような剣矛が神輿を先導しています。
詳細は以下のリンクを参照してくれ
渡物
渡物とは出しもののことです。初期の御霊会では、雑技や芝居のようなものが供されました。また、この時代はまだ現在のような山鉾はありません。ただし、その原型と目すべきものが散見されます。山鉾の起源には諸説ありますが、最も有名なものは、西暦999年、た骨法師という人が大嘗祭の標山(しめやま)に似たものを社頭に渡して、藤原道長が(畏れ多いから、若しくは民衆が興奮して集団心理でへんなことになるのを恐れて)禁じ、た骨法師を捕えようとしたところ、祇園社の神様が怒り異変が起きたと伝えられます。標山とは大嘗祭に際し、二つの山を作り、そこにさまざまな意匠を施したものの事です。これがよく山鉾の原型とした引き合いに出されます。
また、平安時代の公卿、藤原実質の日記、『小右記』によれば、神輿の後に「散楽空車」というものがあったとあります。こらは猿楽をする人が乗った車のようなもので、これも山鉾の原型と考えることができます。これもやはり藤原道長が禁じようとしましたが、再び、異変に見舞われました。
巫女
当時の神輿には、神意を宣託すべく、三基の神輿に巫女が馬で随行していました。写真は葵祭の騎女(むなのりおんな)という巫女ですが、『年中行事絵巻』の絵ではちょうどこの騎女の横にもう一人、人がいて傘をさしている絵があります。
駒形稚児
現在では久世駒形稚児は中御座に随行しますが、平安時代には、今日の東御座たる頗梨采女(はりさいにょ)/少将井神輿に随行していました。
馬長(うまおさ)
馬長とは、小舎人童(貴族などに使える子供)や牛飼童などを着飾らせ、馬に乗せた出し物です。今日の山鉾のように人気がありました。はじめは神輿に随行したいましたが、その後、院御所などに向かうようになります。
祇園祭を支えていた人
「支えていた人」と十把一絡げ申しますが、「神社に関係する人以外の目立った功績、若しくは特色が認められる人々」といった意味だとお考えください。(以下同様)
平安時代では天皇、院、貴族などの貢献が顕著です。先ほど申し上げましたように、祇園御霊会は勅(天皇の命令のこと)に則り開催されました。
藤原道長も度々競馬を奉納していますし、不謹慎と捉えたからか、山鉾の嚆矢とされることが多い大嘗祭(英語版)の標山のようなものを出した曲芸師を捉えようしたりしています。
11世紀頃になると、天皇、貴族などがこのような風流な渡物(祭礼などに付随する行列などの出し物)を奉納することが多くなります。馬長をはじめとする風流が貴族などによりたびたび奉納されています。
この辺りは摂関政治の全盛期で藤原道長なんかが幅利かしてた時だから、貴族も寄与する余裕があったのよ。