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祇園祭2023:山鉾巡行はいつからはじまったのか?:山鉾の歴史

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概説

祇園祭と申しますと、所謂山鉾巡行がつとに有名です。今日、山鉾は各々が属する鉾町から出され、疫神を集め、祭の高揚に寄与するという役割を具備していますが、このような特色を具備した山鉾の巡行が開始されたのは14世紀、南北朝時代にまで遡ります。

他方、祇園祭では1153年前の祇園御霊会の時代から、右の山鉾の特色を胚胎する事物が散見されます。

本稿では、祇園祭の歴史と共に、山鉾が誕生する経緯につき解説申し上げます。合掌

たけちよ
たけちよ

本稿は以下のリンクをご参照いただくとより分かりやすいかと思います。

祇園祭の歴史と意味をわかりやすく解説
祇園祭の歴史につき概観します。原形たる祇園御霊会と祭の意義、並びに平安時代から令和までの八坂神社と祇園祭の主要な変遷を完全網羅。
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2023年最新情報

詳細は不明ですが、祇園祭の本義に鑑み、2022年とほぼ同様、若しくはそれ以上の態様で斎行される蓋然性があります。皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。合掌

たけちよ
たけちよ

2022年は3年ぶりに山鉾巡行が開催されました。前祭、後祭ともに例年通りの日程です。ただし、緊急事態宣言が発令された場合は延期もあるとのことです。詳細は以下の総合ガイドを参照してください。

  • 日程:前祭 2022年7月17日(日)23基 後祭:2022年7月24日(日)11基 鷹山が復活
  • ルート:いずれも例年通り
  • 前祭後祭宵山の開催決定
祇園祭2024/令和6年総合ガイド:神輿渡御・山鉾巡行・宵山開催などのみどころ、くじ取り式結果一覧、屋台、日程・粽・鉾立などを網羅
2024年/令和6年祇園祭の総合ガイドです。本年は神輿渡御、山鉾巡行、宵山などのみどころ、くじ取り式の結果一覧、歴史や由来、前祭・後祭・山鉾巡行・神輿渡御などの行事の日程、生稚児や久世駒形稚児、各山鉾や御朱印、屋台や歩行者天国や交通規制などのおすすめ情報です。
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形式的意義

まずは、形式的に当時の山鉾につきみてみましょう。山鉾の態様を窺知ことができるもっとも古い資料は「月次祭礼図模本」です。これは室町時代に描かれた「月次祭礼図」という屏風を江戸時代に模写したものです。この屏風には京都の四季の様子が紹介されていあますところ、祇園祭の様子も山鉾を中心に描かれます。

ここでは鉾、笠鉾、舁山、屋台(船形)が巡行しています。曳山と船形でない屋台はありませんが、今日とほぼ同じ種類の山鉾を確認することができます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

曳山は舁山を発展させたもんで、でてくるのはもう少し後なのよ。でもフツーの鉾と山、屋台があるからほぼ今と同様と評価してもさしつかえねーべ

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実質的意義

では、次に、今日の山鉾との同等性を実質的観点からみてみましょう。

「山鉾」とは、鉾、曳山、舁山、屋台の総称として用いられます。これらは鉾町に属し、巡行しますが、その核心は地縁に基づく私的自治の発露としての祭への奉仕にあります。

祇園祭では、御祭神が御旅所に遷られる前(前祭)、八坂神社に還られる前(後祭)に、山鉾が疫病の原因たる悪霊の依り代として巡行し、神輿の渡御の際、御祭神がそれらを排することが擬制されています。

所謂「祭」は、神事と神賑神事を包摂します。両者は行為の主体(神職か氏子か)、それら主体の意識の対象(神仏かそれ以外か)、などで形式的には峻別することが可能です。しかし乍ら、実質的判断は困難を伴います。これは祇園祭では、山鉾巡行には先に申し上げました機能が擬制されことに起因します。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

なんで難しいかっつーとよー、巡行は氏子の人によってなされんべ?でもよー、山鉾は祭を見てる人や氏子の人自身を鼓舞する機能があると同時に、依り代で悪霊えを集めるから、神職をはじめとする神社が主体になって、悪霊を退散せしめ、疫病の原因を除くっつー神事の一部たる神輿渡御と密接不可分なのよ。

なんでこんな話するかっとーとよー、神賑神事として峻別するなら、氏子地区で起こったことを追っていけばいいだけなのよ。でも密接不可分っつーことは、神事の観点も加味しなきゃなんねーべ?

だから、祭の趣旨も斟酌して、今日の「山鉾」と評されるべき対象を確定する必要性があんのよ。

祇園祭の歴史の中で、「ほこ」たる名称が付されたもの、若しくは今日の山鉾に類似したものがいくつか出てきますが、今日の山鉾につき詳らかにすべく、本稿では、山鉾につき、以下の三要件を以て定義します。

  1. 鉾町、すなわち地縁に基づく紐帯により準備される。
  2. 依り代としての機能を有する。
  3. 祭を鼓舞し、高揚に寄与する。
七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

つまりよー、1)準備する主体は氏子の人で、八坂神社の人じゃねーけど、2)神事と高度の関連性があって意識は御祭神に向いてんだけど、3)他方、祭を見てる人とか巡行関係者の方にも向いてんのよ。

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祇園御霊会の矛

「ほこ」が祇園祭の歴史の中で最初に登場するのは、祇園祭の前身たる、神泉苑御霊会に遡ります。

『祇園社本縁録』という、祇園社(今日の八坂神社のかつての名称。以下、同様)の社記によりますと、869年に我が国は疫病や自然災害の脅威にさらされていましたところ、この原因は牛頭天王の呪によるものと判明しました。そこで、当時は天皇専用の庭園であった、神泉苑に当時の日本の国を具現すべく、66本の「矛」を同地に立て、祇園社から神輿を送ったと記載されています。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

なんで神泉苑で御霊会かましたかっつーと、元来「庭」っつーのは祭祀を行うとこなのよ。詳細は以下のリンクを参照してくれ。日本語版はつくってねーから、不得手な人はゴーグルの翻訳とかかまして見てくれ。

で、かつ神泉苑っつーのは御所の裏鬼門に当たるから、弘法大師が雨乞いの祈祷するとか、その他節会なんかに用いられたのよ。

The Rock Garden of Ryoanji hides religious syncretism in Japan
The Zen garden/Rock Garden of Ryoanji temple is one of the most famous gardens in Japan. In this article, we learn about the religious syncretism (Shinto, Buddhism) it hides behind.

この「矛」と「鉾」は読み方は同じですが、この「矛」は祭祀で用いられる依り代たる矛指します

一例をご紹介しますと、葵祭の前儀たる賀茂競馬でも、上賀茂神社の御祭神は矛を介して、競馬をご覧になります。また、祇園祭でも神宝行列では矛が中御座を先導します。これは、依り代たる機能を拡張解釈し、邪鬼を除くべく、用いられています。

この矛が今日の山鉾の原型であるといわれることがあります。しかし乍ら、この矛は祇園社が用意したものであり、先ほどの定義には該当しません。勿論、今日の山鉾には冒頭で申し上げました様に、依り代としての機能が付されています。これは祭祀の矛一般の役割が擬制されていることに起因するもので、原型とは異なります。

いちきしま ひめ
いちきしま ひめ

矛には依り代としての機能が付されます。これは覚えておいてくださ~い。

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无骨法師の作山

『本朝世紀』という歴史書の中に、999年に无骨法師という曲芸師のような人が大嘗祭(英語版のみ)の標山に似た作山と共に、祇園社を訪れたとの記述があります。そして、これを制止しようとしたところ、天神がお怒りであるとのお告げがあり、内裏が焼損しました。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

この法師のコスプレした曲芸師を藤原道長が検非違使パシらしてヤキを入れようとして、逃げられたらしいぜ。

悠紀殿と主基殿

『続日本後記』(平安時代の歴史書。六国史の一つ)には以下のように記載されています。

”悠紀主基共立標、其標悠紀則山上栽梧桐、兩鳳集其上從、其樹中起五色雲、雲上懸悠紀近江四字、其上有日像、日上有半月像、其山前有天老及麟像、其後有連理呉竹”

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

俺が訳すぜ。大嘗祭の悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)は両方とも標(山)をたてる。悠紀殿の標は人口の山があり、梧桐(葵に似た葉の木)が植えてある。上には鳳凰が対で留まってて、木の中には五色の雲が配され、その雲の上には「悠紀近江」の字がある。その上には太陽と半月を模したものがついてる。山の前には天老と麒麟の像があり、その後には連理の竹が配されている。

シカさん
シカさん

天老というのは、国が安泰なら、鳳凰が飛んでくるっていう春秋戦国時代の黄帝お話に出てくる人で、連理っていうのは二本の枝がくっついて一つになってる木なんかのことで、下鴨神社にもあるよ。

この標(山)は内裏の北側に設けられた斎場で作成され、悠紀殿と主基殿それぞれの斎田のある国の御霊をお連れする機能を具備していました。主基殿大嘗宮が設けられた朝堂院の前まで今日の山鉾のように洛中を進んでいきました。そして、これらの標山にはこうしてみると、今日の山(鉾)に似た外観と機能を有していたことがわかります。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

悠紀殿の標山と主基殿の標山はそれぞれ南下していって、それからくッて曲がって、ガーッて朱雀大路を上がっていったんだ。平安神宮に大嘗宮があって、そこに向かって山がすすんでいくとこを想像すると当時の様子が頭に浮かんでくると思うぜ。なんか、こう、盛り上がってくる感じがすんべ?

また、10世紀から11世紀にかけてかかれた、『小右記』という貴族の日記には山楽空車というものが登場します。これは、おそらく、上で人が何かを演ずる動く舞台のようなもののものと推認されます。これも先ほどの作山と同様、外観、ならびに機能に於いて、今日の山(鉾)に類似するものと解せます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

16世紀あたりの鷹山なんかはこれに似てんぜ。

シカさん
シカさん

これらは、祇園社や貴族が出したものではなく、所謂、市井の人が御霊会を楽しくするために出したもので、見た目も山鉾に似てるよね。機能と外観という観点から14世紀の山鉾の萌芽を胚胎していたと考えられるんじゃないかな。

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馬上十三鉾

御陰祭

『祇園社記』という祇園社の歴史を記す書物があります。この中に、”馬上御鉾次第事”  という項目があります。

馬上鉾とは、文理上、馬上役に関する鉾、若しくは馬の上で掲げられる鉾と解することができます。(写真は御蔭祭の様子です。)

馬上役とは、12世紀頃に御霊会の費用を負担せしめるべく選出された人のことで、富裕な商人などから選ばれました。祇園御霊会は開始当初は朝廷や貴族の庇護のもとに開催、発展してきましたが、この頃になると、律令体制が崩壊し、御霊会の費用を賄うことが困難になります。そこで、御霊会を継続すべく、馬上役という制度が設けられました。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

御霊会かませねーとよー、天災とか疫病とかで大変なことになんべ?やらねーわけにいかねーから後白河法皇が商人をえらんで費用を負担してもらうことにしたんだ。

馬上鉾が馬上役に関する鉾であったとするならば、馬上鉾とは馬上鉾に随伴する鉾など、なんらかの態様で馬上役にあてられた人に付随するものであったと解されます。

他方、馬の上の鉾と解するならば、なんらかの方法で馬の上で掲げられる矛であったと推認されます。

右に鑑みれば、これは神輿などに随伴する依り代、若しくは邪鬼を払うためのものであり、一般の祭祀用の鉾であったと考えることができます。

また、これらは馬上役に付随するものであったとしても、鉾そのものは祇園社の社僧が代々引き継いだものであり、市井の人々が自発的に出したものとは乖離があり、本稿の今日の山鉾の定義からは外れます。

シカさん
シカさん

ここでも祭祀用の矛として機能していたと推認されるってことだね。

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座の矛

かつて、社寺には神人や寄人と呼ばれる人々が属していました。それぞれ、属する社寺に奉仕し、その代わりに営業上の特権などを付与されました。

祇園社では陽成天皇が堀川沿いの土地を寄進した時に、同地に住んでいた材木座の構成員が神人になったのを嚆矢とし、その後、綿座など日常生活に必要な物資を扱う座の多くを治ることとなります。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

例えばよー、むかしは神輿が鴨川越えるときは、毎年浮橋を渡したんだけどよー、これを提供してたのが材木座だ。

12世紀になると、朝廷は洛中の商人に対する課税を開始します。一方、社寺は荘園を増やし、収入を増やして行きます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

朝廷は土地に対する課税で税収を賄ってたんだけどよー、この頃になると、社寺が荘園増やしてきたからカツカツだったんだ。反対に社寺は潤ってたんだけどな。

『祇園社記録』という祇園社の歴史を扱う書物には、14世紀に旧来の座と新興の商人との間で争いが詳らかにされています。祇園社はこれにつき裁定を行いましたが、その中で、座を座たらしめているのは、6月の御霊会に奉仕している事実であり、奉仕しなければ、座を構成することはできない旨述べています。則ち、この頃になると、御霊会に奉仕するか否かが本質になっており、同業団体としての自律性・独自性が希薄になってきていることが見て取れます。

時に、1369年、南禅寺の楼門が破壊される事件が起こります。これは五山別格の南禅寺の楼門の新造に対し、延暦寺側が神輿を振り、結果、神輿が穢れたため、20年近く御霊会に神輿がだせない状態になりました。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

当時の様子を簡単に説明するぜ。足利幕府は禅宗側だ。これに対するのが延暦寺だ。祇園社は延暦寺の京都主張所みてえなもんだと思ってくれ。南禅寺は新しい楼門の費用を徴収すべく、関所を設けたんだ。そこに三井寺の稚児(小僧さん)が無料でここを通過しようとして喧嘩になり、殺されてしまったんだ。これが端緒となり、五山と延暦寺は全面戦争に突入だ。延暦寺は例によって神輿で強訴、最終的には南禅寺楼門は収去されることになったんだけど、神輿は穢れたっつーことで使えなくなったにも関わらず、費用を捻出できなくて、神輿がねー状態になったんだ。

この後、『後愚昧記』という南北朝時代の公卿の書いた日記(1367のところ)には、「矛」、「造物山」などの記述がみられ、2年後には足利義満が「洛中風流」を見物したことなどが記載されています。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

今年は神輿の渡御はねーけど、作山などの風流はスゲーいいってかいてあったぜ。

この頃になると、このように、現在の山鉾巡行の萌芽をみることができます。恐らく、神輿がなくとも、御霊会を行う必要性、重要性からこれを代替せしめるため、祇園社から付与された営業自治の特権に対する謝意(ただし、この頃には座の営業上の諸権利に基づく自律性は希薄になっていたことに留意されたい)、町内に於ける共同体意識や私的自治の発露として、鉾や造山などがだされたものと解されます。

シカさん
シカさん

代替せしめるべく、依り代としての機能も付与されたと解することもできるよ。

この当時は座が用意するものと並行して、地縁に基づく共同体たる町内から出される鉾とが混在していました。ここにいたり、冒頭の三要件を満たす山鉾が登場したと考えられます。その後、応仁の乱を経て、巡行も一旦途絶えます。乱後に以前の様子を検分して斎行されますが、その後は町内の鉾のみになり、16世紀後半になると寄町(よりちょう)制度という、一定の区画を基準として、巡行の金銭面の負担を工面するための制度が設けられ、より強固なものとなります。余談ですが、寄町制度が明治時代に廃止された後、これを補完すべく設立されたのが、清々講社です。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

まー、見てもらったように、形式的にも実質的にも室町時代から始まってんのよ。ながくなっちまってすまねえ。複雑だからな。

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参考文献

  • 真弓常忠(2000)『祇園信仰』朱鷺書房
  • 真弓常忠/編 (2002)『祇園信仰事典』戎光祥出版
  • 川嶋 將生 (2010)『祇園祭 祝祭の都』 吉川弘文館
  • 本多健一 (2015)『京都の神社と祭』 中央公論社
  • 森田玲 (2015)『日本の祭と神賑』 創元社
  • 脇田晴子 (2016)『中世京都と祇園祭ー疫神と都市の生活』吉川弘文館
  • 納屋嘉人 (2020) 『祇園祭 温故知新ー神輿と山鉾を支える人と技』淡交社



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