南北朝~室町時代
山鉾の原型の出現
この時代には現代のような山鉾が現れました。今日では山鉾は市中に蔓延る疫神を集めるための依り代として機能しています。この時代の鉾にそのような役割があったのかは明確ではありませんが、少なくとも、形式的、すなわち今日類似の外観を有するもの、若しくはその萌芽を認めることができます。
先ほどご紹介しました、无骨法師が作った標山(しめやま/ひょうのやま)ににたようなものがおそらく鉾のはじまりかと思われます、と申しますか、左様に推認する余地があります。
標山っつーのはよー、大嘗祭(英語版しかありません)で用いるお米を作る悠紀田と主基田を選定された国が出すもんで、北野にある斎場から御所にそれらの国の神霊をお連れする依代としたの機能があったのよ。山鉾には疫神を集める依代としての機能があるとされるのはこれが元ネタなんじゃねーかな。
実際には明確な資料がないので断言できませんが、おそらく、先ほどご紹介しました、剣矛が土台になっている可能性があります。この矛は祇園社が用意した神輿に随行するものですが、現在の山鉾は氏子地区の町から出ています。これは明らかに態様が異なります。
実質的に考察すると、山鉾の原型になっているのは、祇園社の下にあった座がだした作り物や囃子物です。
この後も、鉾に関する記録はいくつかでてきますが、少なくとも、15世紀前半くらいまでには「桙、山、船」という記載がみられますので、おそらく、このころに現在の山鉾と類似したものがあったと推認されます。
詳細は以下のリンクを参照してね。
神輿渡御が延期される
これは有名な事例ですので、ご存知の方も多いかと思います。14世紀後半に、神輿渡御が行われず、山鉾巡行だけが行われた期間が10年ほどあります。これは延暦寺が日吉社の神輿を担いで、新造した南禅寺の楼門の破壊を強訴したとき、この神輿が壊れてしまい、新たに作られなかったことに端を発します。
なぜ、これが祇園社の祭礼と関係があるのかと申しますと、当時、祇園社は延暦寺の末寺であったからです。日吉社は延暦寺の鎮守社でしたが、この日吉社の祭礼が行えないのに延暦寺の末寺が祭礼を行うのはおかしいとの判断があったからです。
また、祇園会が12月、ひどいときは大晦日におこなわれたこともあります。これも延暦寺の強訴に関係します。当時、何らかの要求があった時、神輿を担いで幕府に乱入するということがよくありました。幕府としてはこれを安易に容れるわけにはいきませんが、その場合、御霊会が開催されません。すると、当時は何か良からぬことが起こるとかんがえられていたため、攻防がつづいた挙句、その年の終わりになって開催されるという事態が惹起されました。
つまりだ、やらないとまずいから、年の瀬にまとめて一気にやったんだ。天神さんのお祭りなんかも一緒にずれ込んだらしいぜ。
担い手
現在の祇園祭の担い手は、神社側の人を除けば、主に氏子地区、ならびにその関係者の方々ですが、この時代は座もこれを支えていました。
座とは、商工業者などの同業組合のことです。当時、寺社は商工業者に課税し、その代わりに営業特権を付与していました。座の構成員はこの特権に謝意を表すべく、鉾を奉納するなどの貢献をしていました。この座は複数あり、必ずしも現在の氏子地区の内部にあるわけではありませんでした。これに伴い、応仁の乱前には58乃至60の山鉾が巡行していました。
もうよー、このころになると貴族は莫大な金銭的な負担はできねーのよ。ときに、祇園社は生活に必要なもんを作る座を沢山押さえてたのよ。で、この座が祭を支えてたのよ。例えばよー、神輿は鴨川を渡るときは仮設の木の浮橋を渡ったんだけど、この橋を毎年用意してたのが材木座なのよ。さらに14世紀になると祇園祭に奉仕している事実が座を構成する要件になってんのよ。市井の人がafford しているっつー観点からはこの辺りが今の祇園祭の原型みてーなもんよ。
応仁の乱
応仁の乱により、京都は荒廃しますが、祇園会も例外ではなく、33年間中断します。再興されたのは、西暦1500年のことです。
応仁の乱では市内全体が焼け野原になった、などと表現されますが、実際には、上京の一部と下京の一部がなんとか残りました。それぞれの市街地は室町通りでかろうじてつながれ、惣構と呼ばれる、塀や門などから構成される建造物で囲われていました。(ちょうど、プレートをたくさんつけたダンベルを縦にしたように見える。)
この時、再開に際し、中断前の様子を再現すべく、緻密な資料が作成されました。この辺りがおおむね現在の祇園祭の母体になっているといえます。現在、山鉾巡行に先んじ、くじ取り式が行われますが、これは従前の巡行の順番が明確にできなかったことから、1500年の復興の最に始められました。
また、この時、残っていた下京の範囲がおおむね現在の鉾町の範囲と合致します。他方、応仁の乱の後は、先程ご紹介した、座による山鉾は途絶えてしまいました。
担い手
1591年、寄町(よりちょう)制度が開始されます。この制度は道を基準とし、一定の区域にある家々が町中(ちょうじゅう)という自治組織から成ります。この組織の構成員たる富貴な人が寄付や山鉾の飾りものなどの資金を調達していました。この寄町には山鉾を有するものと、有しないものがあり、それらが共同して山鉾巡行を支えていました。以降、現在まで地縁に基づく共同体が巡行を支えるという態様が継続しています。
よく慣用的に「町衆」がと言われるけど、この寄町制度を構成する人的紐帯、すなわち地縁によって結束した人々が祭を支えるという態様は応仁の乱前の座の時代に萌芽があり、この時代に完成されたのよ。
江戸時代
江戸時代になると、京都は大火にみまわれます。主なものは以下の三つになります。最初のものは宝永の大火(1708)です。油小路三条から出火し、風にあおられ、四条以北の鉾町、御所を焼き、最終的には下鴨神社の糺の森に至りました。このとき、函谷鉾が被害をこうむります。
次の大火は天明の大火(1788)です。別名団栗焼けともよばれます。京都が経験した中で、最大のもので、市街地八割が罹災しました。菊水鉾が焼損したほか、甚大な被害がでました。
最期は元治の大火(1864)です。所謂蛤御門の変です。市街地の半部が焼けました。やっと再建された菊水鉾は再び焼損し、復興したのは89年後の1953年です。また、大船鉾も焼損し、復興したのは150年後の2014年です。
尚、『祇園祭 温故知新ー神輿と山鉾を支える人と技』 では洛中洛外図の比較から17世紀に描かれた「佛大洛中洛外図屏風」には神輿渡御が確認できない事実を以て、神輿渡御と山鉾巡行の重要性に対する一般人の認識が推認されていますが、刮目すべきと考えます。
それまでの洛中洛外図屏風と違って神輿渡御が描かれてないから、山鉾巡行の方が人気があったんじゃないかってことだね。気になる人は最後に参考文献を挙げてあるから読んでみてね。
明治時代
明治以前は神道と仏教は混交し、密接不可分と解される状況にありましたが、明治時代になりますと、いずれかを選択する必要性に迫られました。
当時は立憲君主制の筈なんだけどよー、どう説明するかはさておき、事実として「法律上」分離されることのなったのよ。
祇園社は八坂神社となり、ご祭神は牛頭天王から素戔嗚尊にかわりました。にも拘わらす、祭の趣旨はほぼ最初期の態様をとどめています。故に、仏教的な要素が散見されるなど、複雑な様相を呈しています。
まず、御祭神は仏教から神道に改められ、牛頭天王から素戔嗚尊になりました。本地垂迹の観点からは素戔嗚尊が顕在化したと解されますが、素戔嗚尊単独では祇園祭の趣旨たる疫病退散を窺知するには困難を伴うようになりました。
次に、暦が旧暦からグレゴリアンカレンダーにこれにより、祇園祭の日程に齟齬が生じるようになりました。
たとえばよー、神輿は毎年、ほぼ満月の日に帰ってきたのよ。2021年は丁度旧暦とかさなったんだけど、オレは八坂さんの境内で神輿の代わりのお馬さんが帰ってくるのをずっと待ってたんだけど、明るくてスゲー綺麗だたし、昔どんな感じだったのかとか、色々と思うところがあったな。合掌
また、明治に入ると先ほど申し上げました、寄町制度が廃止され、同時に山鉾巡行の人的、経済的基盤が危機に晒されます。これを補完すべく、明治5年(1872)に清々講社が発足し、氏子からの寄付を募り難局に対峙します。これにより、山鉾の売却などは回避されましたが、一部の鉾が経済的な理由により巡行に参加できない事態を招来しました。
綾傘鉾なんか100年ちかく巡行できなかったからね。
昭和時代
太平洋戦争により、祇園祭は再び中断します。昭和22年(1947)に山鉾巡行が一部復活(長刀鉾と月鉾が寺町の辺りまで行って戻ってくるだけ)し、昭和27年(1952)に山鉾巡行は戦前と同じコースにもどりました。昭和41年(1966)には先祭と後祭の山鉾が合同で同日に巡行するようになります。平成26年(2014)には大船鉾が150年ぶりに巡行に復帰、また、再び先祭と後祭の巡行が分離しました。
先祭と後祭の同日開催は祇園祭の根幹にかかわる時代なのよ。なんでかっつーと、山鉾が巡行して、疫病の原因たる悪霊を集め、そのあと、巡行してきた神輿(御祭神)が悪霊を退散せしめることが擬制されてんべ?巡行は一緒になったけど、神輿渡御は従前通りに17日に神幸祭、24日に還幸祭として維持されたのよ。つーことは、還幸祭の時に退散させる悪霊が集められねーことになんべ?錯綜する事情により合同巡行になったんだけど、祇園祭の本質と密接に関連する事態だったのよ。
令和
令和元年
奇しくも、昨年は祇園御霊会から1150年目、節目の年となりました。
この年の後祭で鷹山が193年振りにに唐櫃での巡行復帰を果たします。(上のビデオ冒頭17秒くらいから)
令和2(2020)年
令和二年以降は新型コロナウイルスが世界中が猛威にさらされ、祇園祭の趣旨が顕在化しています。
令和2(2020)年は神輿渡御と山鉾巡行が延期されましたが、御祭神は神籬を介し、御旅所に遷られました。
令和3年(2021)
2021年も再び、神輿渡御、山鉾巡行が延期されました。
令和4(2022)年
2022年は神輿渡御、山鉾巡行が斎行されました。
さらに、2022年、鷹山が曳山として196年振りに巡行に復帰しました。(上のビデオ3:38くらいから)
鷹山については以下のリンクを参照してくれ。
おわりに
以上、急ぎ足ではありますが、重要な点のみご紹介しました。今後、事情によっては追記するかもしれません。最後までご覧いただき、ありがとうございました。祇園祭の総論については、以下のリンクを御参照いただければ幸いです。
どうもありがとうございました。
参考文献
書籍
- 真弓常忠(2000)『祇園信仰』朱鷺書房
- 真弓常忠/編 (2002)『祇園信仰事典』戎光祥出版
- 川嶋 將生 (2010)『祇園祭 祝祭の都』
- 下間正隆 (2014)『イラスト祇園祭』京都新聞出版センター
- 本多健一 (2015)『京都の神社と祭』 中央公論社
- 脇田晴子 (2016)『中世京都と祇園祭ー疫神と都市の生活』
- 公益財団法人祇園祭山鉾連合会 (2018)『放鷹ー祇園祭 鷹山 復興のための基本設計』公益財団法人鷹山保存会
- 納屋嘉人 (2020) 『祇園祭 温故知新ー神輿と山鉾を支える人と技』 淡交社
その他
- 八坂神社 暦神祇園暦
- 祇園祭パンフレット