令和6年/2024年も開催予定
令和6年/2024年も1月8日~14日に開催予定です。結縁後、灌頂院の参拝の可否は不明です。
2023年の様子
ビデオの紫の布で包まれた箱の中に御衣がはいっています。
2023年も後拝み(灌頂院の参拝)は行われませんでしたが、お守りの頒布はありました。例年通り、志納金1,000円。
本日1月8日より始まりました。ビデオ後半の唐櫃に御衣が入っています。
結縁は14日です。合掌
2022年の様子
2022年1月8日に撮影。
2022年1月14日、後拝みは行われず、お守りの授与のみ行われました。御衣は勅使の方が持って帰られました。
後七日御修法とは?意義と歴史
後七日御修法は「ごしちにちみしほ」と読みます。この御修法というのは元々は宮中で営まれていたもので、中国の唐に起源を持ちます。不空三蔵という唐に密教のお坊さんが皇帝のために始めたもので、我が国では、玉体安穏(簡単に申しますと、天皇陛下と国家の安寧のこと)鎮護国家などを祈願するためにおこわなれました。御修法は元来、二週間に亘って行われており、元日から七日までが神事、八日から十四日までが仏事という構成になっていました。この仏事が「宮中真言院後七日御修法」と呼ばれていたため、今日でも、「後七日御修法」と呼ばれます。
真言院っつーのはよー、大内裏にある内裏(天皇が起臥、儀式などを行う場所)の隣にあったのよ。(厳密にはけっこう隣。現在の御所で例えると、葵祭でウシさんがスタンバイしてるあたりです。)
承和2(835)年に弘法大師の進言により、弘法大師が大阿闍梨となり、大内裏にある真言院という所で開催され、長禄4(1460)年までの約625年間の間、特段の事情なき限り、間断なく続いていましたが、翌年から中断、復興したのは、江戸時代の1623年になります。復興以降は紫宸殿で執行されました。その後、明治政府により、1868年に神仏分離令が出されます。これにより、全国で廃仏毀釈運動がおこり、1871年に御修法も再び中断してしまいます。再び復興されたのは、1883年のことです。八日から十四日までが仏事が東寺の灌頂院で執行されるようになりました。
なにをするのか
御修法は密教最高峰の儀式と言われます。当日は真言宗各派総本山の山主、並びに定額僧と呼ばれる真言宗の高僧の方々15名が、一日三回、本坊から灌頂院に出向き、鎮護国家、五穀成就、国土豊穣を祈願されます。また、11日の中日と結願される14日には勅使の方(写真前から3番目)も焼香に訪れます。
灌頂院(かんじょういん)は廊下で縦に二分したような構造になっていて、奥の北側で御修法が行われます。南側を「礼堂」、廊下部分を「相の間」、北側を「正堂」といいます。
正堂は便宜上、母屋と庇のような構造になっているとお考えください。母屋の中には、東側に胎蔵界曼荼羅(写真一枚目)、西に金剛界曼荼羅(写真二枚目が掛けられ、北側に青い五大明王の軸が掛けられます。これらの詳細は東寺立体曼荼羅の記事をご参照ください。)他方、庇の部分には十二天(帝釈天や多聞天など、仏法を守る天部)の軸が掛けられています。
曼荼羅の前にはいずれも修法壇(密教法具などをのせた壇のこと)が設けられています。修法は隔年で西院流、勧修寺流で行われます。二つの曼荼羅が隔年で御本尊とされ、御修法が行われます。2023年は西院流で、胎蔵界曼荼羅がご本尊となります。また、12日には、天皇陛下の二の間に安置されていた二間観音像の前で、観音供が行われます。
御修法では、このほか、災厄をはらう息災護摩壇と、幸運を呼ぶ増益護摩壇が設けられます。これらに加え、五大尊壇、十二天壇、聖天壇、が内部に設けられ、外部に神供壇が設けられます。
御衣は紫の箱の中に入っていて、持っている人は陛下の勅使の人だよ。
葵祭の勅使列の勅使役の人とは異なり、本物の勅使っつーか察してくれ。まー、葵祭にも本物の勅使はくるけどな。
先ほど申し上げました、玉体安穏、鎮護国家などが祈念されますが、この時、天皇陛下の御衣(ぎょい/おんぞ)と香水(こうずい)が加持されます。これは天皇陛下が袖をお通しになる御衣を祈祷することにより、陛下が安穏、ひいては国家も安穏みなるという論理です。灌頂院内(たしか出口あたり)には念持仏であった二間観音も祀られています。
一連の仏事は完全非公開で、我々が灌頂院に入ることができるのは、結縁後の一時間程度の間です。非公開であるのは、仏事であることと、そして、御宝算(ごほうさん)という天皇陛下の生年月日と名前が記載された書類が用いられるからです。
むかしは、これらを知ってれば、呪詛をかませたんだ。
呪詛と申しますと、今日ではその効力は否定されていますが、以前は当然のこととされていました。例えば、聖武天皇の第一子、基王(もといおう)が亡くなったのは長屋王の呪詛によるもの、とされるなど、枚挙にいとまがありません。
地主神社のご神木にはいまだに五寸釘の跡がのこっているよ。
この御衣は8日の朝、唐櫃に入れられて勅使の方と供に灌頂院に運ばれ、14日に結縁後、再び勅使の方とともに、灌頂院から運び出され、御所に届けられます。
二間(ふたま)観音(御本尊)
御本尊は二間(ふたま)観音立像です。鎌倉時代、1232年の作とされ、脇侍たる梵天と帝釈天と共に厨子に納められています。高さは約25センチです。切金文様(金や銅箔を張り付ける技法)が施されています。2020年の宝物館の特別公開で25年ぶりに公開されました。(写真は当時のパンフレット)
オレもそん時拝んできたんだけどよー、光背とか半端ねーexquisiteよ。吉野に連れて行かれたり、御所に何度も運ばれたとは思えねーほど保存状態がいいのよ。東寺のアーカイブを参照してくれ。
この二間観音像は1336年に後醍醐天皇が吉野に運びましたが、その後、後小松天皇が足利義満(金閣寺を造った人)を介し、東寺に返還しています。
二間観音供の契機は1779年の後桃園天皇の崩御にあります。後桃園天皇には子が欣子内親王しかいなかったため、皇統断絶の危機が生じました。皇統は閑院宮家から養子を迎え光格天皇(明治天皇の曽祖父)が践祚しましたが、右の危機を端緒として、1781年に仁和寺の真乗院で、玉体安泰と皇統継続を祈るべく、十八日観音供が始まります。
十八日観音供とは、962年以来、玉体安泰のため、毎月18日に修されていました。
1784年からは、二間観音供が恒例化し、現在まで続いています。
後拝みと灌頂院の参拝方法
先ほど申し上げましたように、御修法は非公開ですが、結縁後約1時間程度は特別に中にはいることができます。これを「御七日御修法後拝み」と言います。毎年1月14日に行われます。灌頂院はこの後拝みの約1時間と後程ご紹介します、閼伽井(あかい)という井戸にかけてある絵馬を公開が行われる6時間だけです。
2023年の公開の有無は不明です。尚、中では人との距離が近くなりがちですので、ご留意ください。
時間は概ね12時30~くらいから(年によって前後します。)。長蛇の列になっていますのでお気を付けください。
われわれも勅使門から入ります。出るときは北側の門から出ます。ここで寸志1,000円を納めます。
すると、スペシャルお札をいただけます。これは先ほどご紹介しました、二間観音を主尊をした祈祷していただいたありがたいお札です。
真言宗の高僧の方々が祈祷してくれたお札だよ。
いよいよ灌頂院に入ります。入口で袋を貸していただけますので、履物を入れ、中に入ります。スリッパはありません。
飛行機でもらえるスリッパや、サンタ用のくつしたなんかもっていくといいぜ
中は撮影禁止です。たしかろうそくの明かりとライトがあったような、なかったような、、、とにかく真っ暗です。中を時計回りで一周して出てきます。
神秘的だったのでその印象が強烈でよく覚えていません。すんまへん。
履物の袋を返却すると、北門に向かいますが、ここで「神供壇(じんぐだん)」とよばれる祭壇のようなものがあります。ここで十二天など天部の神々に供物ささげます。これは御修法の効果を高めるべく行われます。
その後、北門に向かう途中にお堂のようなものが目に入ってきます。これが先ほどご紹介しました、閼伽井です。閼伽とは仏前に備える水のことで、この水をくむことから、閼伽井と呼ばれます。以前はここで汲んだ水を灌頂儀式で使われました。灌頂儀式とは、密教で、守り本尊を決める、弟子や阿闍梨などの資格を授けるなどする儀式のことです。
井戸の上にお堂が建っています。ここには三枚の絵馬が掛けてあります。右から、去年、今年、おととしの作物の出来を表します。ここで昔の農家の人が、馬の首が長いから、雨季が長いなど、いろいろ見立てたそうです。
ここを過ぎると、北門から外に出ます。灌頂院は後拝みの時は約1時間しか開かれません。なるべく早めに行かれるとよいでしょう。合掌。
東寺基本情報
東寺へのアクセス
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近鉄: 東寺駅