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2026年点火の時間
- 大文字・・・20:00
- 松ヶ崎妙法・・・20:05
- 船形万灯籠・・・20:10
- 左大文字・・・20:15
- 鳥居形松明・・・20:20
五山の送り火とは?
概説
五山の送り火とは、毎年8月16日、午後8時から約1時間程度、京都市内の5つの山で焚かれるかがり火のことです。後述しますが、このかがり火は護摩木を燃やすことにより得られます。
送り火はそれぞれ、東から(右)大文字、松ヶ崎妙法、船形万灯籠、左大文字、鳥居形松明と呼ばれます。これらは同時に点火されるのではなく、午後8時の大文字からはじまり、順次5分おきに点火されています。もっとも有名な京都の夏の風物詩であり、祇園祭、葵祭、時代祭とともに、京都四大行事と目され、同時にすべての火が京都市登録無形民俗文化財に登録されています。
この送り火は現在では、お盆の間に此岸に帰ってこられたお精霊さんを彼岸に送り返すために行われていますが、その由来や意味などは明確ではありません。


ビデオで一挙にご覧下さい。大文字、妙、法、船形、左大文字、鳥居形の順です。合掌
コロナ禍の様子
令和二年、同三年年(2020、2021)は密接を回避するため、規模を大幅に縮小した上で行われることとなりました。太平洋戦争時の1943~45年の間に中断した後、1948年以降、五山が揃って縮小するのは初とのことです。点火は上の写真の丸で囲んだ部分のみでした、離れたところからはほとんど目視できなかったのではないでしょうか。
クラウドファンディング
材料費の高騰、人材ほ確保などの諸事情により、本年からクラウドファンディングが始まりました。

護摩木の効用と志納受付日程
護摩木の効用

五山送り火にくべられる護摩木には病をいやす効用があると信じれています。すなわち、護摩木に自分の名前と病名を記載し、火床(ひどこ。護摩木をくべる場所。写真の石が十字に組んである部分)にある割木の上に載せた焚くとその病気がなおるとの信仰があります。また、炭になった護摩木を粉末にして服用すると持病が治るとの信仰もあります。
大文字では、山頂にある大師堂で燈明が灯され、般若心経の誦経の後、この燈明を以て護摩木に点火がなされます。
護摩木の受付場所と時間
大文字
於八神社境内
- 8/14 12:30~17:00頃
- 8/15 8:00~17:00頃
- 8/16 8:00~12:00頃
妙法
於武衛門ビル入口(松ヶ崎駅1番出口をでて左側赤い宇宙人)
- 8/15 10:00~17:00頃
- 8/16 10:00~13:00頃
船形
於西方寺駐車場
- 8/2~15(除く8/4、8/6) 8:00~16:00頃
- 8/16 8:00~10:00頃
左大文字
於金閣寺門前(赤い宇宙人)
- 8/15 9:00~14:00頃
- 8/16 7:00~14:00頃
鳥居形
於八体地蔵付近(青い宇宙人)
- 8/13~15 10:00~16:00頃
- 8/16 9:00~15:00頃
変更等の可能性もありますので、必ず五山送り火連合会の公式サイトでご確認ください。

昨年はminaの一階で受け付けてたけど、今年は何の記載もねー。
詳細はminaのサイトを参照してくれ。
五山送り火の歴史と由来、並びに盂蘭盆会(お盆)との関係
神道の根幹は祖霊信仰と自然、若しくはその背後に神を擬制することにありますが、五山送り火も仏教が伝わる以前の祖霊信仰が端緒になっています。
五山送り火がいつ始まったのか、明確ではありません。文献上確認できるものは、舟橋秀賢という江戸時代の明経博士(大学の教官のような地位)が記した『慶長日件録』の1603年の記述や1682年の『雍州府志』(ようしゅうふし)という山城國の地誌などで、いずれも江戸時代のものです。
後者によると送り火は盂蘭盆会の行事(送り火)として行われていたとあります。盂蘭盆会とは所謂お盆のことです。では盂蘭盆会についてみてましょう。
盂蘭盆会とは『盂蘭盆経』に詳らかにされています。お釈迦さまの弟子に神通力に秀でた目連という人がおり、母親が餓鬼道にいることを知ります。餓鬼道とは生きているすべてのものが輪廻転生する六道の内の下から二番目、地獄道の上に位置します。ここにいる者は常に飢えてと渇きに苦しんでおり、食べ物や飲み物はすべて火にかわってしまうところです。
目連は母親に神通力で食べ物を送りますが、ことごとく火に変わってしまいます。お釈迦様に手立てはないものかと相談したところ、比丘(修行中の僧侶)が会しておこなう安居という修行の最終日に、比丘に食べ物などを施せば、母親も食べ物を口にすることができる旨、諭します。目連がこれを実行すると、比丘は大変喜びました。これが餓鬼道にいる人にも伝わり、目連の母親も食べ物を口にすることができました。

お釈迦さまは、自分のお母さんだけでなく、みんなもすくってあげることが大事だといいたかったんだね。
この逸話が転じ、古代中国で儒教などの考えが加味され、先祖崇拝という行事になっていきました。我が国では、先祖崇拝という観点から神道とも親和性があり、広く流布して現在に至ります。
五山送り火の象徴たる大文字はいつからはじまったのか?
概要
このように、送り火は江戸時代には盂蘭盆会の行事として行われていたことは明確ですが、いつから始まったのかはやはり不明です。いくつかの仮説がありますが、まずは大文字から見ていきます。妙法、船形、鳥居形、左大文字の起源については後述します。
- 平安時代・・・弘法大師(空海)が始めたとする説(真実性は低いと解される)
- 室町時代・・・足利義政の実子義尚の菩提を弔うために始めたとする説(有力説)
- 江戸時代・・・「寛永の三筆」の一人である近衛信尹の筆画をもとにはじまったとする説(通説的見解)
平安時代説
現在、銀閣寺の隣に浄土院というお寺がありますが、ここは元来浄土寺というお寺でした。『都名所図会』(1780)ー今日でいう京都のガイドブックのようなものーによると、このお寺が火災に見舞われたとき、如意ケ嶽(現在大文字が焚かれる山)に御本尊の阿弥陀如来が御顕在になり、光明を放たれので、それをなぞって点火したところ、これを弘法大師が大の字に変えたというものです。ただし、他の文献には同様の記載が一切ないため、風説と考えられています。
室町時代説
『山城名跡志』(1711)によると、足利義政 (銀閣寺を創建した人)が発案し、相国寺の横川景三指導の下に家臣の芳賀掃部が設計したとされています。また、足利義政の実子義尚の菩提を弔うために横川景三が始めたともされています。

これは、銀閣寺所蔵の巻物にその旨記載されています。また、如意ヶ嶽は銀閣寺領であったことから、有力な見解として捉えられています。
江戸時代
こちらも今日でいうガイドブックたる、中川喜雲の『案内者』(1662年)の中に「松ヶ崎には妙法の二字に火をともす。山に妙法という筆画に杭をうち、松明を結び付つけて火をともしたるものなり。北山には帆かけ船、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりといふ」という記述があり、これが根拠となっています。
近衛信尹とは徳川家光公の時代に本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称された能筆家であり、大文字を作成を託されたと考えられることから、通説的見解とされています。

国立国会図書館のアーカイブで読んでみてね。
密教儀式説

Now, make it unclear.
これは御所(平安時代)を護摩壇に、大文字を胎蔵界曼荼羅の大日、左大文字を金剛界曼荼羅の大日、妙法ほ御本尊、船方を水天、鳥居形を火天に擬制し、空海が東寺から疫病の流行を払うべく密教儀式を行ったとするものです。
ただし、送り火はかつては、「一」、「い」、「竹の先に鈴」、「蛇」、並びに「長刀」の十山で行われていたといわれており、本当かどうかはわかりません。殊に後二者に関しては設計図が発見されていますので「五山」ではなかった時期があったのは間違いなさそうです。

でもよー、最初は5個で途中で増えてまた減ってもおかしくねーべ?

次のページは点火の仕方や各山の解説だよ。




