おすすめ/RECOMMENDED

三大祭、紅葉、名所などを厳選して記事とビデオでご紹介!
Recommended articles and videos, BAAH!

あ、ポチッとな/CLICK HERE!
PR

五山の送り火2024:歴史や由来と盂蘭盆会と各山の解説

この記事の構成

このページのもくじはこの下にあります。

いちきしま ひめ
いちきしま ひめ

外出されるか否かは十分な情報を収集の上、ご自身で判断なさってください。本投稿、並びに本サイトは読者の皆様の外出を喚起・推奨するものではありません。また、本投稿内の記載事項は変更されることがありますので、ご注意ください。上記、並びに本サイトから起因する一切の不利益に対し、本サイトはいかなる責任も負いません。かならずご自身でご決断・確認ください。

スポンサーリンク

Breaking

スポンサーリンク

2024年護摩木の受付

各保存会で受け付けています。日時は五山送り火連合会の公式サイトをご覧下さい。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

今年はminaの一階で受け付けてるからこっちの方が便宜に適うんじゃねーの?その日に用意してある護摩木がなくなり次第終了とのこと。10日の19:00頃はまだ残ってたけど、当日は結構早くなくなるかもな。詳細はminaのサイトを参照してくれ。

  • 期日 8/10~15
  • 時間 13:00~19:00
スポンサーリンク

五山の送り火とは?

たけちよ
たけちよ

ビデオで一挙にご覧下さい。大文字、妙、法、船形、左大文字、鳥居形の順です。合掌

五山送り火

五山の送り火とは、毎年8月16日、午後8時から約1時間程度、京都市内の5つの山で焚かれるかがり火のことです。東から(右)大文字、松ヶ崎妙法、船形万灯籠、左大文字、鳥居形松明と呼ばれます。これらは同時に点火されるのではなく、午後8時の大文字からはじまり、順次5分おきに点火されています。もっとも有名な京都の夏の風物詩であり、祇園祭葵祭時代祭とともに、京都四大行事と目され、同時にすべての火が京都市登録無形民俗文化財に登録されています。

この送り火は現在では、お盆の間に此岸に帰ってこられたお精霊さんを彼岸に送り返すために行われていますが、その由来や意味などは明確ではありません。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方
全国津々浦々お盆最終日に行われる送り火やその他の行事と同じ趣旨だ。神道の祖霊に対する畏敬の念が神仏習合下で結実したようなあんべえだ。
スポンサーリンク

歴史と由来、盂蘭盆会(お盆)との関係

五山送り火がいつ始まったのか、明確ではありません。文献上確認できるものは、舟橋秀賢という江戸時代の明経博士(大学の教官のような地位)が記した『慶長日件録』の1603年の記述や1682年の『雍州府志』(ようしゅうふし)という山城國の地誌などで、いずれも江戸時代のものです。

後者によると送り火は盂蘭盆会の行事(送り火)として行われていたとあります。盂蘭盆会とは所謂お盆のことですが、ここで盂蘭盆会についてみてましょう。

盂蘭盆会とは『盂蘭盆経』に詳らかにされています。お釈迦さまの弟子に神通力に秀でた目連という人がおり、母親が餓鬼道にいることを知ります。餓鬼道とは生きているすべてのものが輪廻転生する六道の内の下から二番目、地獄道の上に位置します。ここにいる者は常に飢えてと渇きに苦しんでおり、食べ物や飲み物はすべて火にかわってしまうところです。

目連は母親に神通力で食べ物を送りますが、ことごとく火に変わってしまいます。お釈迦様に手立てはないものかと相談したところ、比丘(修行中の僧侶)が会しておこなう安居という修行の最終日に、比丘に食べ物などを施せば、母親も食べ物を口にすることができる旨、諭します。目連がこれを実行すると、比丘は大変喜びました。これが餓鬼道にいる人にも伝わり、目連の母親も食べ物を口にすることができました。

シカさん
シカさん

お釈迦さまは、自分のお母さんだけでなく、みんなもすくってあげることが大事だといいたかったんだね。

この逸話が転じ、古代中国で儒教などの考えが加味され、先祖崇拝という行事になっていきました。我が国では、先祖崇拝という観点から神道とも親和性があり、広く流布して現在に至ります。

スポンサーリンク

で、いつから?

概要

このように、江戸時代には盂蘭盆会の行事として行われていたことは明確ですが、いつから始まったのかはやはり不明です。いくつかの仮説がありますが、ここでは、有名な大文字の「大」の字の起源から推察してましょう。

「大」の字の起源は大きく分けると、平安時代、室町時代、江戸時代の三者があります。

平安時代説

現在、銀閣寺の隣に浄土院というお寺がありますが、ここは元来浄土寺というお寺でした。このお寺が火災に見舞われたとき、如意ケ嶽(現在大文字が焚かれる山)に御本尊の阿弥陀如来が御顕在になり、光明を放たれたところ、これを弘法大師が大の字に変えたというものです。

室町時代説

足利義政が実子義尚の菩提を弔うために始めたというものです。

アフロさん
アフロさん

応仁の乱ですね。銀閣寺所蔵の巻物にその旨記載されています。

江戸時代

中川喜雲の『案内者』(1662年)の中に「大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりといふ」という記述があり、これが根拠となっています。近衛信尹とは徳川家光公の時代、に本阿弥光悦らとともに「寛永の三筆」と称された能筆家です。

シカさん
シカさん

国立国会図書館のアーカイブで読んでみてね。

スポンサーリンク

密教儀式説

アフロさん
アフロさん

Now, make it unclear.

これは御所(平安時代)を護摩壇に、大文字を胎蔵界曼荼羅の大日、左大文字を金剛界曼荼羅の大日、妙法ほ御本尊、船方を水天、鳥居形を火天に擬制し、空海が東寺から疫病の流行を払うべく密教儀式を行ったとするものです。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

密教儀式については後七日御修法の記事を参照してみてくれ。

ただし、送り火はかつては、「一」、「い」、「竹の先に鈴」、「蛇」、並びに「長刀」の十山で行われていたといわれており、本当かどうかはわかりません。殊に後二者に関しては設計図が発見されていますので「五山」ではなかった時期があったのは間違いなさそうです。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

でもよー、最初は5個で途中で増えてまた減ってもおかしくねーべ?

シカさん
シカさん

次のページは点火の仕方や各山の解説だよ。