長刀鉾(なぎなたぼこ)のみどころ
「長刀鉾」の名前の由来
「長刀鉾」名前は鉾頭という真木(しんぎ。屋根の上の木のこと)の上の部分についている大長刀に由来しています。この長刀は元来、三条宗近が娘の病気平癒のために鍛えた奉納したものがつけられていました。三条宗近は平安時代の刀工(上の写真です。この像は長刀鉾の後ろ側の軒下にあります。)で、三日月という刀は「天下五剣(簡単にもうしますと、日本の名刀五振)」の一つに数えられていいます。
この長刀、影だけで注連縄を切った、影を踏んだ人が怪我をしたなどの逸話を持つ名刀です。これを鎌倉幕府の和泉小次郎という御家人がもつに至ります。和泉小次郎とは、源頼家の遺児、千代丸を擁して北条時義時を倒し源氏の再興をはかろうとした人物です。この和泉小次郎が宗近作の長刀を持って以来、不思議なことが起るので、長刀を八坂神社に返納しました。この長刀には邪気を祓い疫病を退散させる力があると信じられていました。(後述しますが、これが祇園祭の趣旨です。)
長刀鉾の長刀の下にはこの和泉小次郎の像があります。この像は天王像とよばれます。遠すぎて、私のレンズでは撮影できませんが、船を自在に操る人だったので、左肩に船を担ぎ、右手で長刀を持っています。
さて、この宗近作の長刀ですが、大永2年(1522年)に三条長吉(さんじょうながよし)作のものと取り替え,さらに延宝3年(1675年)には和泉守来金道(いずみらいきんみち)作のものに替えられ、さらに天保8年(1837年)には重くて危ないので、錫箔を張った竹製のものに交換されました。
三条長吉作の長刀は鞘に納められ、見ると目が見えなくなるといういわれがあるそうです。和泉守来金道作のものは会所で目にすることができます。
この長刀ですが、御所と八坂神社に刃を向けないように、南側を向いています。
長刀鉾は「くじとらず」
山鉾巡行の順番は一部の例外を除き、くじできめられます。長刀鉾はこの例外(長刀鉾を含め全部で9基)の一つで、「くじとらず」と呼ばれ、毎年山鉾巡行の先陣を切ります。
一番最初に動かねーと他の鉾が動けねーからな。
山鉾巡行時には、四条通を挟んで麩屋町通に斎竹が立てられます。この斎竹に注連縄が張られ、結界が作られます。
長刀鉾の生稚児がこの注連縄を落とし、神域に進んでいきます。これは山鉾の巡行路を祓清めるために行われます。現在生稚児が乗っているのは長刀鉾だけです。両脇にいる顔を白く塗った子供さんは「禿(かむろ)」と呼ばれます。
これは正面の軒下にある舞人の人形です。『振鉾』という舞楽の演目の一つで、舞楽の上演に先立ち、舞台を清めるために舞われます。このように、長刀鉾には邪気を払う、清める、といった役割があります。
胴懸(タペストリー)
樹のような絵(1枚目の写真)と幾何学模様とトラ(2枚目の写真)をご覧ください。これがメトロポリタン美術館の専門家が「幻のタペストリー」と指摘したものです。絵の周囲にある模様のようなものがアラビア文字の「クーフィー体」と呼ばれる字体で、中心の絵は中国のもののようです。ヨーロッパではタペストリーは日用品なので、古くなってら捨てていたそうで、現存するものはすくないそうです。
星辰28宿
星辰28宿とは昔の中国の天文学、占星術で用いられる概念です。これはご覧のように天井にあります。
金字極彩色図
前方に丹頂鶴、後方にクジャク、両脇に群鳥図を配します。ともに江戸時代の日本画家、松村景文の作です。
長刀鉾の辻回し
各山鉾の辻回し(交差路で山鉾の向きをかえること)は山鉾巡行のみどころの一つです。長刀鉾はあまり安定していないので、何回かに分けて少しずつ方向を変えていきます。
車輪の下に竹を敷いて、その上を車輪を滑らせて方向転換します。この日は雨ですが、晴れていれば、竹の上に水を掛けます。
長刀鉾の動かし方
動かし始めるときは、長い棒をてこにして、動かし始まます。櫂のようなもので、方向を修正します。
長刀鉾の位置
長刀鉾の授与品
ご利益は厄除け・疫病除けです。写真は2019年のものです。一番の人気は粽です。恐らく、市内の軒先で一番多く目にする粽です。他の授与品も含め、早々と売り切れていまいますので、入用の方はお早めに。