概説
天龍寺はかつては嵯峨天皇の皇后が開いた壇林寺という寺院でしたが、その後、亀山天皇の「亀山殿」という離宮でしたが、1339年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために、夢窓国師を開山として創建しました。
現在の天龍寺の庭園は方丈の前にある「曹源池」という池を中心とした回遊式庭園です。この曹源池にある「龍門爆」と呼ばれる石組は、西芳寺上段庭園とならび、前期枯山水の傑作とされています。本稿では、この龍門爆を中心に、石の三橋、蓬莱山、亀島、夜泊石、座禅石などを加味し、曹源池のみどころを解説申し上げます。合掌
曹源池
先程申し上げましたように、天龍寺の庭園は曹源池との名称を付されています。これは、池の底から「曹源一滴」とい記載された石が見つかったことに由来します。
「曹源一滴」とは、一滴の水が、やがて大河になっていくように、禅の教えが遍く広がっていく様をたとえたものです。紅葉の隠れた名所、興臨院の方丈庭園がこの主題をわかりやすく表現しています。
方丈正面から見るとご覧のような位置関係になっています。ので、以下詳らかに解説申し上げます。
龍門爆とは?
概説
天龍寺の”龍門爆”とは鯉が瀧を登り、龍になる逸話を雲水の指針として石組みで表現したものです。
この逸話は『後漢書』に記載されているものですが、天龍寺の庭園(曹源池)をはじめ、禅宗の庭園に具現されている主な理由は蘭渓道隆の『大覚禅省行文』に求めることができます。
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)とは、南宋の僧侶で、日本に帰化し、禅宗をもたらしました。『大覚禅省行文』の中では鯉が生命を賭して瀧を昇り龍になる行為並びに背後にある意思を、雲水が修行を経て観音の智慧を得る過程での範とすべしとしています。夢窓疎石は蘭渓道隆の弟子たる無隠円範に師事していますので、右を端緒として、龍門爆を造ったと解されます。また、夢窓疎石は山野での修行を続けていましたが、修行の場として機能を付与された西芳寺の上段庭園でも龍門爆が設けられていることもこれを補強します。
なんつーの、よくよー、禅云々つって心の隙間に、オーホッホッ、すり寄ってくるようないろんなもんがあんべ?そういう類のもんみてると、”lessez-faire なcreedみてえな何か”のように見えるかもしんねーけど、実際は鯉のコイちゃんが前提なのよ。
で、龍門爆は中国の壺口瀑布(ここうばくふ)という実在の滝のことなんだけど、階段みてえな岩場から台風一過みてえな水が流れてて、洪水後の滝みてえなとこなのよ。こんなとこ乗り越えれば、龍になるにきまってんべっつーくれえおそろしいとこよ。
この中で、鯉は三段の瀧を越える旨言及されているので、金閣寺のもののような例外を除き、多くの龍門爆では瀧が三段になっています。
天龍寺の龍門爆は『都林泉名所図会』によると実際に水がながれていること、また、背後に水が湧いていたことから、元来は水を用いた瀧でした。現在は水は流れていないため、事後的に枯山水となったものです。
青い数字が瀧の一段目、二段目、三段目を示します。「観音」、「鯉」はそれぞれ観音石、鯉魚石(ぎょりせき)を示します。
龍門爆の一番下の段から見ます。2、3が水が流れていた石で「水落石」と言います。3の両脇にある石は「脇石」といいます。脇石に挟まれた水落石という構成は『作庭記』に記載されている瀧の作り方の一つです。
上段はこのようになっています。鯉は三段の瀧の二番目にいます。1の瀧を昇り、龍となる直前の姿です。
石の三橋
龍門爆のすぐ下にあります。『都林泉名所図会』をみると、かつてはこの橋の下を瀧の水が流れていたようです。日本で最初の天然石を用いた石橋です。
蓬莱山
道教の神仙蓬莱思想に基づくもので、不老不死の憧憬から、飛鳥時代に日本の庭園に取り入れられ、現在までつづく主題です。(ただし、曹源池の畔にある高札では三尊石とされています。)
青い線上の石群は「夜泊石」とよばれ、蓬莱山に向かう船を表します。
また、亀島も神仙蓬莱思想に基づくものです。亀は寿命が長いため、右を表象せしめるものとして、我が国の庭園でよく見られます。
借景
曹源池に向かって左から、嵐山、亀山(小倉山のこと)、愛宕山を借景にし、庭園を拡大しています。
座禅石
夢窓疎石作庭の西芳寺の上段庭園も天龍寺のものと同様、座禅石と龍門爆がセットになっています。これは夢窓疎石が庭園を修行の場と位置付けていることに由来します。
天龍寺へのアクセス
嵐電嵐山駅・市バス嵐山天龍寺前バス停すぐ。JR嵯峨嵐山駅・阪急嵐山駅より徒歩約15分。
天龍寺基本情報
- 名称:霊亀山天龍寺
- 住所:〒 616-8385 京都府京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
- 電話:075-881-1235
- 公式ホームページ 天龍寺公式
- 拝観時間 8:30~17:30
- 拝観料 500円
- 所要時間 30分~