概説
本稿では苔寺との名称でも知られる京都西芳寺の歴史、苔、みどころ、申込方法、アクセスにつき詳細にご紹介いたします。合掌
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苔寺たる所以と歴史
西芳寺と申しますと「苔寺」、”The Moss Garden” などという名称を冠され、境内には120種類以上の苔が繁茂しています。この「苔寺」たる名声は多分に現在に至るまでの経緯に依るところが大きいので、最初に西芳寺の歴史につき概観します。
西芳寺は元来、聖徳太子の別荘として設けられ、阿弥陀如来が祀られていました。その後、聖武天皇の勅願により「西方寺」として行基により寺院として建立されます。
これよりのちの経緯は明確ではありませんが、12世紀末に、中原師員(なかはらもろかず)という鎌倉幕府の評定衆を務めた御家人が再建します。このとき「西方寺」は「西方寺」と「穢土寺」に分離されます。
その後、再び荒廃し住持の不存在が続き、中原師員の子孫たる中原親秀が夢窓疎石を中興の開山として現在の景観を整えたとされています。
実際はよー、よくわかんねーのよ。さっき「西方寺」は「西方寺」と「穢土寺」に分かれたっつったべ?これはよー、欣求浄土(ごんぐじょうど。所謂極楽浄土のこと)と厭離穢土(おんりえど。けがれている世界のこと)の対比に由来して、これを承継して境内地が二分した、i.e., 夢窓疎石がくるまえからあったっつーのもあんのよ。他方、『西芳寺池庭縁起』によると、夢窓疎石が庭園を造っている間、毎日お地蔵さんが手伝いに来てくれて、完成した日に自らの錫杖と夢窓疎石の袈裟を交換したところ、後日染殿地蔵がその袈裟を着ていったっつー話もあんのよ。このお地蔵さんは浄・穢を峻別しない時宗の象徴である、i.e., 欣求浄土・厭離穢土の構成は承継してないとか、他にもいろいろあんのよ。
『西芳寺池庭縁起』は国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧可能だから興味がある人はここをクリックしてよんでみてね。字も読みやすいよ。
室町時代に入り、金閣寺を創建した足利義満が将軍になる頃の明の禅僧の間で既にして西芳寺は名を高めますが、1469年、応仁の乱によりほぼ完全に焼損してしまいます。足利義政は銀閣寺の創建に先立ち、西芳寺の指東庵(上段庭園にある開山堂。現在非公開)を再興すべく尽力しますが、いずれの完成も見ないまま、没します。その後、織田信長の京都への侵入を防ぐべく、周囲に放火したことにより、西芳寺は再び全焼します。現在の伽藍が整うのは明治時代に入ってからです。
しかもよー、西芳寺って谷にあんべ?だから何回も洪水の被害にあってんのよ。で、約700年くらいの栄枯盛衰の間、復興までの放置された期間が多々あって、それらが現在の苔の繁茂に寄与してるといわれてんのよ。以下、苔が意図的に植えられたのではないことを端的に示しているとこを教えるぜ。
黄金池には島がありますが、『作庭記』によれば、伝統的な島の周囲は渚を示すために小石を置くことになっています。この島は庭園が浄土式庭園として造られたときのものですが、当時は逸脱することができない決まりでした。
典型的な浄土式庭園は現存しませんが、似ているものとして平等院鳳凰堂を見てみましょう。ご覧のように、島の端には小石が置かれています。
西芳寺ではこの小石が後から繁茂した苔の覆われています。この事実が苔が当初から意図して植えられたものではないことを示しています。
西芳寺のみどころ
西芳寺の庭園は上段、下段にわかれていますところ、現在拝観可能なのは下段庭園のみとなります。そこで、本章では下段を中心に解説申し上げます。庭園は特別名勝・史跡に指定されています。また、西芳寺そのものは1994年に「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されています。
黄金池
概説
下段庭園は池泉庭園になっています。この中心をなすのが、黄金池(おうごんち)という池です。先ほど申し上げた聖徳太子の別荘時代からあった 夕日の清水という湧き水が水源になっています。(休憩所の裏手にあります)
朝日ヶ島、夕陽ヶ島、ならびに霞ヶ島の三島を配します。各々橋で結ばれていますが、参拝者が渡ることはできません。また、少庵堂、湘南亭、並びに、潭北亭(たんほくてい)という三つの茶室を有します。
黄金池という名称は宋の時代の『碧巌録』(へきがんろく)という禅語を纏めた書物の大18則に依拠します。
慧忠(えちゅう)国師という僧侶が唐の粛宗(しゅくそう)皇帝に自らの入滅後、「無縫塔」の建立を乞います。この「無縫塔」の意味につき、国師の弟子に問うた際、以下のように返答しました。
”湘之南、潭之北~(中略)~中有黄金充一国~(中略)~無影樹下合同船~(中略)~瑠璃殿上無知識~(中略)~”
湘之南、潭之北というのは実際の地名を用いた広さの例えであり、無限に広がるといったような意味で、中有黄金充一国は中に黄金があるという意味です。無影樹下合同船は常に光の指す樹の下(浄土のたとえ)には船があり、瑠璃殿上無知識とは瑠璃殿(ここでは浄土の寓意)とは知識を介して知ることはできないといった意味です。
この話が庭園内の黄金池、湘南亭、潭北亭、それと船に対応してて、庭そのものは宇宙全体に広がる浄土を示唆、i.e., 悉有仏性を意味してんじゃねーの?たぶんよー。
湘南亭(重要文化財)
夢窓疎石の時代から存在したとされます。現在の茶室は千利休の後妻たる宋恩の子たる少庵が慶應年間に再興したものとされています。かつて岩倉具視がここに身を寄せていたことがあります。重要文化財に指定されています。
潭北亭
こちらも夢窓疎石の時代から存するとされますが、当初とは位置が若干異なります。
少庵堂
少庵堂たる名称は、先ほど申し上げました、少庵の像が祀られていたことに由来します。
影向石(えいこうせき)
庭園に入ってからしばらくすると石群が見えてきます。この中に注連縄が掛けられている石がありますこの石は影向石とよばれます。歴応年間(1338~42)に松尾大社の松尾明神が社司の夢に現れて「私はこの地に降りるが、ここに社殿をつくらないように」と告げたので、翌朝確認してみると、この石に注連縄が掛けられていたという故事に基づきます。現在でもお正月に注連縄が掛け変えられます。
三尊石
黄金池の霞ヶ島にあります。この庭園が先ほど申し上げましたように、浄土を含意するのであれば、中央が阿弥陀如来、左右が観音菩薩、勢至菩薩を意味します。
湘南亭を過ぎた後、道がガーッで下り坂になってるから、そこを降りた先に三つ並んでる石が三尊石だ。やじるしのとこな。この後紹介するけど、鶴島も三尊石になってるぜ。
神仙蓬莱思想
概説
神仙蓬莱思想とは、不老不死の願望を仮託したもので、飛鳥時代にもたらされました。我が国の庭園はこの思想の多大な影響の下にあり、多くの庭園では不老不死を示唆する鶴や亀、蓬莱山やそれに向かう船を表す島や石が配されます。多くの庭園にみることができますが、わかりやすい例として、蓮華寺の庭園をご紹介しますので、ご興味を持たれた方は以下のリンクをご参照ください。
亀島
右側の島です。
金閣寺の葦原島はこの島を範としています。
金閣の手前の島だ。
鶴島
写真右側手前の島です。霞ヶ島を挟んで反対側にあります。三尊石も兼ねています。
船石
鶴島の右横にあるのが船石と思われます。