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祇園祭2024/令和6年:神輿と神輿渡御の解説

この記事の構成

このページのもくじはこの下にあります。

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祇園祭の本質と神輿渡御

神泉苑
祇園祭のはじまりは貞観11年、西暦でいうと869年まで遡ります。当時の夏の京都は盆地で高温多湿であったこと、また現在と異なり上下水道が不備で両者が混同するなどの理由で、天然痘や赤痢、インフルエンザなどの疫病が流行していました。

当時は怨霊が疫病や災害を起こすと考えられていましたところ、上記の疫病などの流行は早良親王などの祟りだということから、祇園社司卜部日良麻呂(うらべのひらろ)が神泉苑に当時の国の数である66本の矛を立て、その矛に悪霊を乗り移らせて、祇園社から三基の神輿を送り牛頭天王を祀り、疫病退散を願う「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が行われました。

「御霊会」とは怨霊を御霊として祀ることです。これは強大な破壊力を持つ怨霊を祀ることにより、その破壊力を我々を護る力に転化せしめることが狙いです。

この御霊会は当初は疫病が発生した時など、不定期で行われていましたところ、天禄元年(970年)からは毎年開催されるようになりました。

御旅所

途中、神輿渡御が行われない時期もありましたが、今なお、神輿の役割に変更はありません。山鉾が市内を巡回し、悪霊を乗り移らせ、その後、神輿に乗った神様が市内(八坂神社は昔の京都の外にあります。)に入ってきます。そして、神輿の神様に悪霊を退治、若しくは別の場所につれいて行ってもらいます。(現在八坂神社がある場所は昔は洛外であることを想起してください。)

祇園祭と言えば、華やかな山鉾が取りざたされますが、本質は神輿渡御(神輿が市内に入り御旅所にとどまること)にあります。

たけちよ
たけちよ

祇園祭の歴史をさらに詳しく知りたい人は下のリンクを参照してね

祇園祭の歴史と意味をわかりやすく解説
祇園祭の歴史につき概観します。原形たる祇園御霊会と祭の意義、並びに平安時代から令和までの八坂神社と祇園祭の主要な変遷を完全網羅。

尚、祇園祭の詳細は以下の総合ガイドをご参照ください。

祇園祭2025/令和7年総合ガイド:神輿渡御・山鉾巡行・宵山開催などのみどころ、くじ取り式結果一覧、屋台、日程・粽・鉾立などを網羅
2025年/令和7年祇園祭の総合ガイドです。本年は神輿渡御、山鉾巡行、宵山などのみどころ、くじ取り式の結果一覧、歴史や由来、前祭・後祭・山鉾巡行・神輿渡御などの行事の日程、生稚児や久世駒形稚児、各山鉾や御朱印、屋台や歩行者天国や交通規制などのおすすめ情報です。
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祇園祭の神輿(三基)

概説

重ねて申し上げますが、祇園祭で最も需要なのは、神輿渡御です。神輿渡御とは八坂神社から神様を乗せた神輿を四条寺町にある御旅所というところまで運び、神様を(むかしの)京都市中にお連れすることです。山鉾が集めた疫病の原因である悪霊を神様に別の場所に連れて行ってもらうことが祇園祭の趣旨になります。

現在では御旅所は四条寺町の一か所ですが、かつては、御旅所は二か所ありました。一つは大政所御旅所といい、大将軍/牛頭天王神輿(現在の中御座)、沙羯羅竜王/八王子神輿(西御座)が駐輦しました。もう一つは少将井御旅所といい、少将井/頗梨采女神輿(現在の東御座)が駐輦しました。

神輿の名称神輿の屋根の形旧御旅所江戸時代まで明治時代以降
中御座

六角形大政所御旅所牛頭天王素戔嗚尊
東御座四角形大政所御旅所沙羯羅竜王/八王子櫛稲田姫命
西御座八角形少将井御旅所頗梨采女八柱御子神

上記が神仏分離前後の御祭神と神輿の対応関係です。中御座は牛頭天王/素戔嗚尊と対応していますが、東御座と西御座では習合神と神輿の名称が入れ替わっています。ただし、屋根の形や上に乗っている鳳凰などの対応関係は絵により区々ですので、この点はご留意ください。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

ここはこの記事の後半部分や久世駒形稚児の記事を理解するのに必要だから覚えといてくれ。


上の地図をご参照ください。青い宇宙人が大政所御旅所、紫の宇宙人が少将井御旅所があった場所の近くです。現在の京都新聞社の建物の壁に近くにあった旨の記載があります。実際に存在した場所も明示されてはいますが、一般のお宅の軒先なので、詳細はひかえます。

今年は祇園祭1150年奉祝行事の一つとして、又旅社(赤い吹き出しのところ)で三基の神輿が合流した後、なるべく時間差がないようにして八坂神社に向かうようにするそうです。これは平安~江戸期の古の様子を再現する試みです。

実際の様子をとり急ぎまとめましたのでご覧ください。6:10くらいから神輿が登場します。

平安時代から南北朝時代くらいまでは旧暦6月14日に行われた還幸祭が一番盛大でした。大政所御旅所、並びに少将井御旅所から出発した三基の神輿は、御供所(現在の又旅社付近)に入り、三基そろってお供えをした後、三条通を東に向かい、祇園社にかえりました。赤い宇宙人のところは「列見の辻」と呼ばれ、ここから三条沿いが一番の観覧スポットであり、天皇や貴族などがこぞって見物しました。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

見逃すなよ。

中御座

御祭神

素戔嗚尊の御霊をお乗せします。神仏習合の時代には牛頭天王をお乗せしていました。

素戔嗚尊は高天原を追われた後、八岐大蛇の生贄にされそうになっていた櫛稲田姫命と結婚します。このとき、日本で最初の和歌を詠まれました。所願成就、縁結びなどのご利益があります。

牛頭天王は天道神として、吉凶すべての方位を守る仏神です。所願成就の暦神です。

神輿のようす

祇園祭 2016 神輿渡御

三若神輿会(さんわかしんよかい)が担ぎますが、神輿洗の時は四若神輿会が担ぎます。輿丁は600名。

豊園泉正寺真榊久世駒形稚児/Kuzekomagatachigo

中御座のみ、豊園泉正寺真榊(ほうえんせんしょうじまさかき)と久世駒形稚児に先導され進みます。三基の神輿のうち、中御座のみが、祇園祭発祥の地、神泉苑に向かいます。

六角形をしていて、屋根の上には鳳凰が乗っています。西御座と外観がよくにていますが、最も簡単な見分け方は輿丁の法被です。中御座のものには「三若」と書いてあります。他方、西御座のものには、「錦」と書かれています。実際には西御座は八角形をしていますが、並べてみないと、よくわからないので、渡御時は法被でくべつされるのがよいかと思います。

祇園祭神輿

写真の真ん中が中御座、左が西御座、右が東御座となっています。中御座が六角柱、西御座が八角柱、東御座が四角柱になっているのをご確認ください。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

中御座は西御座に比べて、六角柱だからシュッとしてんべ?

写真は御旅所の様子ですが、このとき、東御座は西に、西御座は東に置かれています。先ほど御旅所は四条寺町の一か所と申し上げましたが、実は、上の写真の左右に二か所あります。向かって右側の御旅所には現在の中御座と東御座(真ん中と右)の御神霊と勅板が祀られます。他方、向かって左側の御旅所には現在の西御座(左)の御神霊が祀られます。すなわち、東西が入れ替わっています。

神輿の名称神輿の屋根の形旧御旅所江戸時代まで明治時代以降
中御座

六角形大政所御旅所牛頭天王素戔嗚尊
東御座四角形大政所御旅所沙羯羅竜王/八王子櫛稲田姫命
西御座八角形少将井御旅所頗梨采女八柱御子神
七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

複雑なことになってるから補足すんべ。~御座っつーのは八坂神社御本殿の中心、東側、西側のいずれに鎮座されてるかっつーことなのよ。江戸時代までは神仏習合の下、東側(御本殿向かって右側)に八王子=八柱御子神、西側に頗梨采女=櫛稲田姫命が祀られてたんだけいど、神仏分離令により、八坂さんは神社になったべ?神式では左より右側が上座だから、櫛稲田姫命が祀られることになったのよ。ただ、お乗せする神輿と滞在される御旅所は変わらずにそのままになってんのよ。

表をご覧いただければお分かりかと思いますが、右側が旧大政所御旅所、左側が旧少将井御旅所と対応しています。

 

東御座

御祭神

櫛稲田姫命の御霊をお乗せします。神仏習合の時代には牛頭天王の后神、頗梨采女(はりさいにょ)をお乗せしていました。

櫛稲田姫命は先ほど申し上げましたように、素戔嗚尊の后神に当たられます。豊穣や縁結びなどのご利益があります。

頗梨采女は歳徳神とよばれ、俗にいう恵方をつかさどります。容貌美麗とされますので、美しくなれます。

神輿の様子

東御座

四角柱で屋根の上には葱花(そうか。擬宝珠の別名)がのっています。四若神輿会(しわかしんよかい)が担ぎます。東若御座という子供神輿があります。輿丁は東御座450名、東若御座50名。

西御座

御祭神

八柱御子神の御霊をお乗せします。神仏習合の時代には牛頭天王と、頗梨采女の間に生まれた八人の皇子、八王子をお乗せしていました。

八柱の御子神とは素戔嗚尊と櫛稲田姫命間に生まれた、宇迦之御魂神(所謂お稲荷さんのこと)など八柱の神のことです。

八王子は八将軍ともよばれ、凶方をつかさどります。

神輿の様子

西御座

八角柱で、錦神輿会(にしきしんよかい)が担ぎます。錦天満宮にも参拝します。輿丁は600名。