歴史的変遷とその理由
土地確保の困難性
形式的な理由として、土地の確保の困難性が挙げられます。ご存知のように、15世紀なかばの応仁の乱により、京都全体が荒廃します。これにより、それまでのような大型の庭園を構築できる面積の土地の確保が困難になります。これは土地そのものの確保のみならず、金銭的な負担が難しくなったことによります。
さっき言ったように、龍安寺は回遊式庭園があるくれえ広いのよ。これは応仁の乱の前に細川勝元が譲り受けた山荘を改造したからなんだけど、石庭自体は狭えべ?
土地の確保が困難になったため、寝殿造のような大規模な建物は廃れ、書院造など小規模なものへと変容していきます。
これらの理由から広大な庭園の造園が困難になり、「庭園の一部」たることが困難になり独立した小規模な建物に付随する庭園へと発展します。
禅宗の伝来と龍門爆
次に実質的に考察してみましょう。鎌倉時代になると宋から禅宗が伝播します。禅宗の道場や庭園は経典、語録、水墨画を視覚化・具体化せしめます。13世紀半ば、南宋から蘭渓道隆という僧が来日し、大分にある滝を「龍門の滝」と命名し、この滝を望む龍門寺という寺院を創始します。
「龍門の滝」とは、『碧巌録』という選りすぐった禅公案とその注釈が記された書物です。その第七則にある”三級浪高魚化龍”という文に現わされている滝の事で、鯉が三段の瀧を昇り、龍となるさまを表現しています。これは修行僧が修行を経て観音の智慧を得るべく努めなけらばならない旨を戒めています。
先ほど申し上げました様に、禅宗の道場・庭園は修行のための場所であり、語録などを視覚化・具体化します。
この嚆矢が夢窓疎石という禅僧・作庭家が『碧巌録』にある龍門の滝を西芳寺や天龍寺に庭園に具体化した龍門爆です。(写真は天龍寺のもの)
夢窓疎石は寺院に留まることなく、自然の中での修行を重んじた僧です。西芳寺の庭園は上段・下段に分かれ、龍門爆は上段庭園にあります。上段庭園は夢窓疎石の修行に関する考えが具現され、座禅石が配するなど、修行の場として作庭されています。
だから西芳寺の上段庭園には一般人は入れねーのよ。龍門爆の詳細は以下のリンクを参照してくれ。
また、禅に於いては、自然とは人間と一体であり、仏性があると考えます。また、何ものにもとらわれない自由な状態として尊重されます。これが禅以前の我々の自然観を更に発展させたました。
冒頭で申し上げました様に、日本の庭園は自然を発現せしめるものです。この自然に対する意識が禅宗の伝来により発展し、「枯山水」という形式を介し具現される下地が形成されます。
つまりよー、広くても、狭くても自然を表現するのが伝統的な日本の庭園なのよ。
水墨画の具体化
ときに、天龍寺とは足利尊氏が夢窓疎石の勧めにより後醍醐天皇の菩提を弔うために創建されました。そして、資金調達のため、天龍寺船という貿易船が元に向けて出港します。これにより、元寇以来途絶えていた貿易船が元と交易を再開し、利益を上げるとともに、元から様々な文物がもたらされます。その後、足利義満は明との勘合貿易を始め、これに拍車をかけるようになり、所謂唐物が大量に輸入されます。この中でとりわけ枯山水庭園に影響を及ぼしたのが北宋の水墨画です。
水墨画は自然を主題としますが、この時代の水墨画は残山剰水という技法が用いられます。残山剰水とは、元来は戦争により荒廃した山河の意味ですが、画法としては、山河の一部を描くことにより、全体を表現することを意味します。この技法を利用することにより、「自然」を庭園の中に表現することが可能となります。
南庭
先ほど申し上げました様に、後期枯山水庭園の多くは南庭に設けられています。日本の庭園は機能の観点から、大庭、島、坪、屋戸に分類されます。大庭とは主要な建築の前に設けられる場所のことで、島は築山や池などを設ける場所です。坪は採光のための場所で、屋戸は建築の周囲の場所と考えておい下さい。
「にわ」とは元来、儀式などの行為をなす場所です。大庭とはこの意義の「にわ」であり、各種の行為に備え、何も置かないのが原則となります。『作庭記』でも広く確保するべきものとされています。
依り代としての山から平地に移動してきたことに起因するんだけど、長くなるから詳細は以下のリンクを参照してくれ。
写真は京都御所の紫宸殿です。白砂が敷いてある場所は南庭(ここでは「だんてい」と読みます。)紫宸殿とは即位礼や節会など、儀式を行う場所です。儀式は元来は庭で行われていましたが、時代の変遷とともに、建物の中で行われるようになります。ただし、昭和天皇の即位礼など重要なものは南庭が用いられました。右のような変遷はあるものの、南庭には現在でも何も置かれていません。
普段オレらが行くとよー、御所の南庭は通路として使われてんのよ。でもたまに紫宸殿の前まで行けんべ?そん時も通路として使われるけど、ルートが違うべ。なんでこんなことができるかっつーと、何も置いてねーからなのよ。実際、昔も節会なんかが行われるときは南庭が会場になってテントみてえの張ったりしてたし、貴族が紫宸殿に用があって行くときは通路として機能してたのよ。なんか置いてたら、こうした用に供せねーべ?
南庭というのはかように本来は開けておかなければならない場所です。にも関わらず、多くの後期枯山水庭園は南庭におかれています。この庭としての機能は、時代と共に次第に希薄化していき、江戸時代になると弛緩してきます。故に江戸時代にあると、あまり問題になりませんが、龍安寺の石庭などは16世紀頃には現在の場所に造られており、なぜ許容されたのかは不明です。おそらく、庭とは畏怖の対象たる自然を代替せしめるものであるところ、これが禅宗により発展し、仏性を認める我々の自然観に合致しているため、例外に許容されたものと考えることができるかと思います。
すまえねえ、これはオレにもよくわからねえから、いろんなことから窺知することしかできねえ。気になった人は次に挙げる参考文献を参照の上、攻めてみてくれ。
参考文献
Daisetz T. Suzuki, Zen and Japanese culture, Bollingen Foundation Inc., 1959
David and Michiko Young, The Art of the Japanese Garden, TUTTLE publishing, 2005
小野健吉 (2009)『日本庭園ー空間の美の歴史』岩波書店
今江秀史 (2020)『京都発・庭の歴史』世界思想社
中田勝康 (2020) 『全貌 日本庭園 象徴庭園から抽象枯山水へ』学芸出版社