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龍安寺石庭の意味・みどころ・謎を簡単かつ詳細に解説

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龍安寺石庭の歴史と作られた時期の謎

龍安寺の歴史は10世紀まで遡ります。現在の龍安寺がある場所には、元来、円融天皇の御願寺(天皇の発願により建立された寺院)たる、円融寺というお寺がたっていました。現存する、鏡容池(きょうようち)という門をはいってすぐのところにある池は円融寺のものと伝えられます。円融天皇(法皇)がなくなったあと、左大臣藤原実能が山荘を営み、徳大寺を建立します。1450年、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元が徳大寺実能から山荘を譲り受けたことがその始まりと伝えられます。勝元はその山荘を居所とし、妙心寺から義天玄承を開山として、龍安寺を建立しました。その後、1499年に応仁の乱により消失し、勝元の子、政元が再興しましたが、1797年の火災で大半を焼失します。火災は大きなものを計3回経験しています。

その後、明治時代になり、神仏分離令が発布されます。これに伴い廃仏棄釈が起こり、龍安寺もこれにより破壊され、衰退の一途を辿ります。

1975年、イギリスのエリザベス女王が石庭を絶賛、若しくは訪れただけのいずれかを皮切りに一挙に有名になります。1944年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

上の写真をご覧ください。これは実際に龍安寺に展示されているものです。これによると、石庭の原型は細川勝元の時代に作られたとあります。奇妙な岩があり石清水八幡宮を遥拝するために木が植えられていないとの記載があります。この写真は江戸時代の旅行ガイドブック、『都林泉名勝図絵』(1799年刊)という本の写しです。

先ほど申し上げましたように、龍安寺は応仁の乱、とその後の火事に見舞われています。他の寺社仏閣も応仁の乱による被害を受けていますが、龍安寺の場合、さらに、火災で境内の主だった施設が焼失しています。これにより、おそらく、寺史のような主要な資料が焼失しているものと推認されます。故に色々な説があります。ある資料によると、石庭はもともと屋根付きの橋がかかっていて、その上から眺めるようになっていたとも言われます。『都名所図会』(1780年刊)では、石庭には橋が架かっています。また、現在の石庭は裏側からみると、塀の高さが違う(石庭側からみるよりも塀が高く見える。)のですが、これは石庭が火災で燃えたもの(debrisとしか書いてありませんでした。炭化した柱や大きめの木材などでしょうか?)の上に庭園を造ったからともいわれます。

これよりさらに古い記録としては、1588年に豊臣秀吉公が龍安寺の方丈庭園で花見をしたときのものがあります。この時秀吉公は石をとってはいけない旨諭していますので、すくなくともこのときには何等かの石があったはずです。

このように龍安寺に関しては、はっきりしないところが多いのが現状です。

シカさん
シカさん

寺伝とか全部燃えちゃったからね。

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龍安寺石庭の土塀(築地塀)の謎

概説

龍安寺の塀

龍安寺の石庭の土塀ですが、油土塀とも呼ばれます。これには菜種油が混ぜてあります。これにより、照り返しを防いでいる、強度を得ていると言われています。そして、ご覧のように、油が染み出してきて、侘び寂びを感じさせる容貌になっています。また、先述しましたように、壁を挟んで、庭園側が高くなっているのですが、これも強度を得るためとも言われています。

壁自体は一見しただけではわかりにくいのですが、かなりの高さがあります。今、手元に、Le Japopon d’André Malrauxという本がございます。このアンドレさん(フランスの作家)が石庭の壁の辺りを歩いている写真があります。この人が清水の舞台の端でたたずんでいる写真から推認すると、身長は高くても180センチくらいです。また、ケネディ大統領と一緒に並んで写っている写真ではほぼおなじ身長(183センチ)くらいです。

他方、石庭は、上の写真の右端のあたりで、この人の身長プラス頭三つ分くらいの高さがあります。角のところでも身長よりも高いので恐らく2メートルくらいあると思われます。

塀の作成は室町時代にまでさかのぼるといわれます。18世紀に方丈が焼失したときも災禍をのがれました。ただし、当初からこのような油土塀だったかは不明です。先ほどご紹介しました、方丈にある『都林泉名勝図絵』の絵では、塀は白っぽく、柱のようなものがあります。今一度ご確認ください。

遠近法?

the rock garden of Ryoanji

次に壁の高低に工夫がなされています。石庭自体は実は水平ではなく、上の写真の奥から手前に向かって少しずつ低くなっていますが、これは、排水のためです。(写真の矢印とは逆の方向に向かって雨水などが流れていく仕組みです。)これに対し、壁もまた、水平ではなく、写真手前の方が奥に比べて少しずつ高くなっています。これはおそらく、庭が傾いて見えないようにするためかと思われます。同時に遠近法を用いて奥行きを出しているといわれます。ただし、ルネサンス期に確立された技法としての遠近法が伝播したのではなく、広く見せるための作庭技術があったのかもしれません。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

なんつーの、ここでいう「遠近法」っつーのはルネサンス期に確立された遠近法で、絵画の技法として日本に入ってきたのはずっと後なのよ。でもよー、この「遠近法」っつーのは絵画に尽きるものではなく、教会とか庭園とかにも用いられてて、厳島神社って遠近法かましてあると解する余地があんのよ。この場合宣教師経由でもたらされたと推認できる余地があんのよ。

故に龍安寺と同時期に作られた南禅寺の方丈庭園には遠近法がかまされてると解する余地があると構成することもできんのよ。(石や木が左から右へ向けて小さくなっている)小堀遠州がつくったんだけど、宣教師からヨーロッパの技法とか学んでんのよ。だからこうしたバロック庭園の必殺技も教えてもらってたんじゃねーの?と予断を持たずに考えてることもできんべ。ただ、上に挙げ例はすべて間接事実ばっかで「遠近法」に則り作庭したっつー主要事実が証明できねーのよ。

ところでよー、後期枯山水には水墨画の三次元での具現化っつー趣旨があんだけど、単に宋の水墨画の必殺技たるspatial deapthがかましてあんじゃねーの?

シカさん
シカさん

spatial depthって日本語でなんていうのかわからないけど、長谷川等伯の松林図なんかに使われてる技法だよ。遠くのものは遠くに、近くのものは近くに見える効果があるよ。

龍安寺なんかの庭園は天龍寺船とかがもたらした宋の水墨画の強い影響をうけて発展させたものだから、可能性としてはこっちの方が高いね。

最初に出てきた『作庭記』ってパンデクテン方式で書かれてる民法典みたいによまないと意味をなさないけど、パンデクテン方式で書かれてるわけないよね。

黄金分割?

遠近法と同様、西洋で確立された概念で考察しているので、ここで言及します。龍安寺の石庭は黄金分割で構成されているとする見解がありますが、黄金分割を適用するために恣意的に庭園の範囲を決定しており、適用の前提を欠いています。故に適用の結果を論ずるまでもないのですが、参考の為に申しますと、庭園を黄金分割した場合に、各石のグループが線上にあるだけです。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

行けばわかんだけどよー、そもそも龍安寺の石庭(砂の部分)って四角じゃなくて、六角なのよ。御所の鬼門のとこの塀みたいに欠けてんのよ。ついでに塀と方丈の縁側で区切られたとこもやっぱり欠けてんのよ。

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誰が龍安寺石庭を造ったのか?

夏の龍安寺石庭

これもはっきりしません。細川勝元が作庭したともいわれます。『都林泉名勝図絵』では、「相阿弥の作にして」と記載されていますが、これも確実ではありません。

ほかにも、般若道人鉄船宗煕という人も挙げられます。この人は龍安寺が工事で煩わしいので、故郷の美濃に帰り、『仮山水譜序(かれさんすいふへいじょ)』という本を記した人ですが、作風が龍安寺の庭園に似て簡素で力強いものであったといわれます。いずれも推測の域をでないようです。(先述のように資料の欠缺によるものと思われます。)写真の一番左の細長い石の裏に”小太郎・口二郎 “との字が彫られているそうですが、石職人の名前とされています。(方丈側からは見えません)

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龍安寺石庭概観

a miniature of the rock garden

今一度、龍安寺石庭を概観してみましょう。

the rock garden of Ryoanji

龍安寺石庭の大きさは、約25×10メートルです。この中に、15個の石が5の塊に分けられて配置されています。

 

the rock garden of Ryoanji

それぞれの塊は苔の島に乗っています。

the rock garden of Ryoanji

島の周りには白砂が敷き詰められています。

the rock garden of Ryoanji

一番の特徴は、庭自体には植物は苔を除いてはなく、季節を通して同じ庭が存在するようになっています。もちろん、桜や紅葉をみることができますが、これらは全て庭の外側にあります。

いろいろ検討してお疲れのことと存じますので、だれもいない方丈庭園をしばしご覧ください。

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