見返り阿弥陀象、寺宝などその他のみどころ
概説
新緑シーズンの永観堂は秋の混雑が想像できないほど、空いています。秋ですと、いきおい、混雑の上、紅葉を急ぎ足でたのしむことになり、御本尊や寺宝などは二の次になってしまいがちです。この点、青もみじの頃は空いていますので、ゆっくりとたのしむことができます。以下、主なものをご紹介します。
見返り阿弥陀像
もともとは聖武天皇の御本尊で、東大寺に安置されていましたが、永観律師の勧進の功績により、永観が京都に持って帰ることになりました。東大寺の僧が取り返そうとしましたが、阿弥陀像は永観律師の背中から離れようとしなかったため、僧たちは諦めて帰ったという逸話があります。
なぜ振り返ったお姿かと申しますと、ある2月の早朝、永観律師が夜を徹して念仏修行をしていたところ、堂内に人の気配を感じると、目の前を御本尊の阿弥陀如来が歩いていました。阿弥陀如来は立ちどまり、振り向きざまに、「永観、遅し」と永観律師に言葉をかけられました。その時の様子を留めたのが阿弥陀堂内の阿弥陀如来立像です。
秋と違って、青もみじの時分ならゆっくり参拝できるからな。
長谷川派と狩野派の邂逅
玄関入って右側に釈迦堂がありますが、長谷川等伯や狩野元信筆の襖絵がてんこ盛りになっています。
ここは平生でも気に留めない人が殆どだけど、見といたほうがいいんじゃねーの?気に入った人は南禅寺に行ってトラさんとかみるといいぜ。
山越阿弥陀図
所謂来迎図ですが、山の向こう側(極楽浄土)から阿弥陀如来が現れ、左右には脇侍たる観音菩薩、勢至菩薩が描かれます。(写真撮影はできません)瑞紫殿の中に複製品が安置されています。
カエルさん(木魚蛙)
梅雨の時期に木魚のようになく蛙が臥龍廊のあたりにいます。誰もそのすがたを見たものはいません。
コココって声がするよ
永観堂概説
永観堂とは正式な名称ではなく、正式名称は「聖衆来迎山無量寿院禅林寺(しゅうじゅうらいごうざんむりょうじゅいんぜんりんじ)」といいます。現在の永観堂のある場所は、もともとは藤原関雄という平安時代の文人・官僚の山荘があった場所です。ここに空海の弟子である、真紹僧都(しんじょうそうず)という僧侶がこの山荘を買取り、仏教寺院を建立したのが始まりです。このお寺が863年に清和天皇の勅許により定額寺に定められ、禅林寺となります。定額寺とは、大宝律令、平安時代には太政官符(一般国民に対しても拘束力がある通達のようなもの)でも禁止されてい私寺(しじ)を官寺に編入することで、私寺i.e. 違法状態にあるお寺を回避する手段です。この当時は真紹僧都が空海の弟子であったことからもわかるように、真言宗の道場でした。
その後、中興の祖、永観律師(お寺の名称は「えいかんどう」ですが、「ようかんりっし」と読みます。)の時代に念仏寺となります。永観律師は東大寺で三論集を学びますが、とりわけ阿弥陀/浄土信仰に念仏修行に励み、病人救済などの慈善事業をはじめることとなります。永観は東大寺別当(寺を統括する僧)に任ぜられるほどの高僧であり乍、出仕など表舞台にでることを好まず、念仏行に専念し、また前述の通り、慈善事業を行うなど人柄にも優れ、白河上皇も帰依するほどの人物でした。「永観堂」と呼ばれるのも永観律師にちなみます。また、有名な「見返り阿弥陀仏」も永観律師が日課にしていた念仏行と深い関係があります。
阿弥陀堂
阿弥陀如来立像が安置されます。この阿弥陀如来像のお顔を見ながら立って右側に見える地蔵菩薩像が永観堂で一番古い仏像になります。おそらく創建当時からあるのではとのことです。
豊臣秀頼が大阪の四天王寺の曼荼羅堂から移築されました。中は現在塗装の塗り直し中です。撮影は禁止されていますので、外側の写真をご覧ください。極彩色が鮮やかで一見の価値があります。豊臣秀吉は永観堂の檀越(だんおち。檀家のこと)の一人で、堂内入って左側に豊国神像という絵がかけられています。
永観堂基本情報
永観堂へのアクセス
市営地下鉄蹴上駅
永観堂の最寄りのバス停は南禅寺・永観堂道ですが、昨今混雑が増していることに鑑み、当サイトでは地下鉄の蹴上(けあげ)駅を利用しします。水色の電車マークが蹴上駅です。ここから徒歩で永観堂に向かいます。途中、南禅寺や天授庵を経由していくことも可能です。徒歩約15分程度です。
市バス
市バス5系統 南禅寺・永観堂道バス停より徒歩5分。
市バス32、93、100、102、203、204系統 東天王町バス停より徒歩10分。