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京都金閣寺の見所、内部、歴史を画像付きで詳細かつ簡単に説明【2020年12月現在屋根の工事終了】

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金閣寺の歴史

金閣寺 a.k.a. 鹿苑寺/舎利殿を立てた人物

kinkakuji

金閣寺全体の正式名称は「北山鹿苑寺(ほくざんろくおんじ)」といい、上の写真の金色の建物は「舎利殿」若しくは「金閣」とよばれます。臨済宗相国寺の境外塔頭寺院で、室町幕府三代将軍、足利義満により建立されました。義満の死後、鹿苑院太上天皇(ろくおんいんだいじょうてんのう)という諱に基づき、「鹿苑寺」と名付けられました。金閣寺(舎利殿と庭園)は北山文化を代表する建築で、1994年に、世界遺産に登録されました。

金閣寺の歴史のはじまり

鎌倉時代

今日「金閣寺」と呼ばれている場所は、かつては西園寺家が所有する「西園寺」という名前の寺院(1224年建立)でした。西園寺家は平安時代の公家で、西園寺公望は西園寺家の末裔です。13世紀、鎌倉幕府滅亡とともに失った地位の回復を図るべく、後醍醐天皇をこの西園寺で亡きものにし、新たな天皇を即位させようとしますが、親類の密告により計画が露見、処刑され、財産を没収されます。

室町時代

この事件の後の1397年、当時絶頂にあった足利義満が譲り受け、「北山殿(きたやまどの/きたやまでん)」という居所を立てます。この北山殿は御所にも比肩しうるほどの大邸宅でした。当時、義満は形式的には子の義持に将軍職こそ譲っていましたが、政治的権力を手放すことはせず、北山殿でこれを行使しました。(ちなみに北山殿はよく耳にする「花の御所」のことではありません。花の御所は現在の京都御苑の北側、今出川駅の付近にありました。)

この北山殿「会所(人があつまり会合などを行う場所の意味)」として機能し、五山文学などで有名な「北山文化」の語源となっています。北山文化は公家と武家文化の融合と呼ばれていますが、この特徴は舎利殿にも表れています。(後ほど詳しく説明いたします。)

戦国時代

この後、15世紀には有名な応仁の乱(1467-1477年)により京都の大半が消失しますが、金閣寺は西陣に近かったため、仏像を焼失するなどの被害にあっています。

明治時代

1868年、明治政府による神仏分離令とそれに続く廃仏毀釈により、他の寺院同様に、金閣寺もそれまで有していた特権と経済的基盤を失います。

昭和時代

この後、金閣寺は拝観料などで収入を確保しつつ、国宝や特別名勝に指定されるなど、していましたが、1950年(昭和25年)の7月に修行僧の放火により、舎利殿や内部の仏像などを消失します。この事件に取材したのが、三島由紀夫の小説『金閣寺』です。

放火後、金閣寺は国宝の解除を受けます。これは、法律上、国宝に指定されたままだと立て直しができないからです。

例を挙げますと、上賀茂神社の本殿と権殿(本殿に何らかの理由で使えない場合に使う仮の本殿)は国宝に指定されています。上賀茂神社も本来は式年遷宮の都度建て替えますが、現在では建物を建て替えることはできず、代わりに屋根の吹き替えを以って式年遷宮に代えています。

話を元にもどしますと、金閣寺は鳳凰や、扁額、柱などを残してほぼ全焼してしまったので、国宝解除の後、再建がおこなわれました。平成になってからも金箔の張り替えなどが行われています。金閣寺は世界遺産に登録されていますが、国宝には指定されていないのはこのような理由によります。

その後、1994年には「古都京都の文化財 Historic Monuments of Ancient Kyoto (Kyoto, Uji, and Otsu cities 」として世界遺産に登録されました。

やぎももさん
やぎももさん

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