概説
北野天満宮には菅原道真公が学問の神様として祀られ、受験合格などのご利益で知られていますが、これは「頭のいい人」たる道真公が祀られているからではなく、平安時代から続く御霊信仰に基づいています。本稿では道真公の来歴を辿りつつ、そのご利益につき、御霊信仰との関係につき概観します。合掌
御霊信仰
御霊信仰とは、天災や疫病などの原因を、政争などの理由により非業の死と遂げた人の怨霊の祟りに求め、当該怨霊を追いやりそれらを回避するという信仰です。当初は追いやることが目的でしたが、後に怨霊を霊威を持つ神として崇拝することにより、その庇護を得ることに変化していきます。また、右の原因を外来の疫神に求める天王信仰も派生しました。
両者ともに1,000年以上たった今でも信仰されてるんだね。天王信仰と祇園祭の関係は以下のリンクを参照してね。
菅原道真とは
菅原道真とは、平安時代の貴族で、現在では学問の神様として知られています。幼少の砌から詩歌に秀で、朝廷では式部少輔(人事を司る役所の官吏。現在の人事院に相当)と文章博士(もんじょうはかせ。官僚育成機関で漢文や歴史を教える人)を兼任します。
その後、宇多天皇の近臣として重用され、宇多天皇の皇子、斉世(ときよ)親王に娘を入内させます。
右大臣てのは、太政官っつー三権が合体したような機関で、朝廷で一番地位がたけーのよ。この機関で一番偉いのが太政大臣なんだけど、この大臣は常設じゃなくて適任者がいるとその地位に就くことになってたのよ。その下に左大臣がいて、その次に右大臣が続くのよ。右大臣の地位がスゲー高えのがわかんべ?右大臣になるには当時は家柄が大事で、まー、藤原さんとか将軍とかその辺がてんこ盛りよ。他方、道真公は貴族なんだけど、学者の家の人で、右大臣になるのは異例なのよ。
その後、宇多天皇は退位し、醍醐天皇に譲位しますが、菅原道真を引き続き重用する旨託し、結果、右大臣となります。
この時、道真公は家柄が低いことや誹謗中傷が相次いだため、辞退を申し入れたけど、受け入れられなかったんだよ。
昌泰の変と御霊信仰と現在
昌泰の変とは901年に起こった事件で、藤原時平が菅原道真を讒言(ざんげん。目上の人に虚偽の事実を述べ他人を陥れんとする行為)により、現在の福岡にある大宰府(主に軍事・外交を担う機関)に左遷させた事件です。
さっき言ったけど、右大臣やらなんやらになる人は相場が決まってんのよ。道真公のような儒家の家系の人が入ってくると、藤原さんなんかは己の地位が脅かされる危険があんべ?だから、排除したくなってくんのよ。
ただし、時平公と道真公はそこそこ仲が良かったんだけど、その他貴族は道真公が目障りだったのよ。
あと、讒言はよく虚偽告訴とか訳されてるけど、三権合体だから告訴なんか事実上もそんなもんねーわな。ついでに言うと、後述するように制度としても、事実としても弁解の機会もなかったのよ。なんでこんなこと言うかっつーと、修学旅行生の人も読んでくれてると思うんだけど、歴史上の事件も理由とか背後にある事実を考えると理解しやすいっつーか勝手覚えるもんだからなのよ。
簡単にいうと、醍醐天皇の御代では、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣だったんだけど、時平は道真公が醍醐天皇を廃位させ、代わりに斉世親王を践祚させようとしたって醍醐天皇にウソをいったんだよ。
これを耳にした宇多上皇は醍醐天皇に会おうとしましたが、参内できませんでした。菅原道真も宇多上皇に弁解し、自身の無辜を証明しようと仁和寺に向かいましたが、やはり取り次いでもらえませんでした。結果、大宰府に左遷され、同地で逝去します。
この左遷はかなりえげつねーのよ。給料はでねーし、かなり悲惨な最期だったのよ。道鏡なんか下野薬師寺っつーとこに左遷させられたんだけどよー、このお寺なんか当時日本に三か所しかねー戒壇(授戒するところ)があったお寺でしかも一応別当だったからな。
道真公は仁和寺に行ったとき、石の上に座って宇多上皇への取り次ぎをまっていたんだけど、この時の石は今も「菅公腰掛石」として、御影堂の隣にあるよ。この岩から水が湧いてきたので、その上に不動明王をお祀りして、現在では水掛不動尊と呼ばれているよ。不動明については、立体曼荼羅の記事を読んでね。
その後、藤原時平を始めとして右大臣など貴族が物故、保明親王が薨御(こうぎょ。内親王などが死亡すること)すると、これらは菅原道真の祟りだと噂されます。
保明親王っつーのは、時平の妹の子だから、時平との関係があるのよ。
昌泰の変から30年近く経った930年、醍醐天皇と太政官らが平安京周辺の旱魃の対応を協議していたところ、清涼殿に落雷します。この時居合わせた大納言の藤原清貫が死亡するなどして大混乱が生じます。
清涼殿っつーのはよー、内裏にあって天皇の起臥に用いられる建物なのよ。ここで死穢が生じるっつーのは大事件なのよ。さらに藤原清貫っつー人は時平に、「オメ、(左遷後の)道真がなにやってるかちゃんとみとけよ。」ってパシらされてた人物なのよ。ここから藤原清貫は道真公の怨霊により〇されたっつー噂が広まり、落雷は道真公が雷神となったっつー話の端緒になったのよ。
醍醐天皇はこれらを目の当たりにし、体調を崩し、三か月後に崩御します。
これら一連の事件を契機とし、菅原道真は神として現在の北野天満宮に祀られます。
もう一度最初にかました御霊信仰の話に戻るぜ。御霊信仰は天災などの原因を不慮の死を遂げた人の怨霊に求める信仰だべ。当初は怨霊を追っ払うもんだったんだけど、後にはそのおそろしパワーで守ってもらうっつー考えに発展したのよ。時に道真公は学問に優れた人だったべ?そんな人(怨霊)に守ってもらうならば、学問関係にご利益があると考えることができんべ?だから、今日では「北野天満宮に参拝すると受験に合格する」というご利益があると信じられてるのよ。単に「頭のいいひと」が祀られているからじゃなくて、千年以上前の考えが今でも続いているからそう信じられているのよ。
今日、オレたちの身の回りにあることっつーのは、かように昔の人の考えとか歴史的な事実が隠れてるもんなのよ。で、こうした事実がオレたちの規範やら認識の態様やらなんやらの背後にあんのよ。そんなことを少しでも考えてくれたらうれしいぜ。じゃあ勉強がんばってな。オレからは以上だ。合掌
北野天満宮へのアクセス
市バス:北野天満宮前バス停
嵐電:北野白梅町駅