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清水寺の舞台の歴史と構造と景色、そして飛び降り願掛け

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舞台の構造

概要

清水寺の構造

次に舞台の構造についてみてみましょう。総面積は畳百畳(約190平米)東西に約18メートル、南北に約10メートルの長さになっています。床面は総檜張りです。板は長さ5~6メートル、幅が最大60センチくらいのものが敷き詰められています。これほど立派な一枚板は、光明院や清水寺を除くと、なかなかお目にかかることができません。高さは約13メートルです。

清水寺の本堂は「懸造」と呼ばれる工法により作られています。これは崖の上に建物を建てる場合に使われるもので、図でご覧いただけますように、清水寺は横から見ると、半分以上崖の上に建っています。白線が内内陣、黒い線が内陣です。青い線の礼堂、赤い線の廊下、緑の線の舞台、これらすべてを合計78本の柱が支えています。

清水の舞台

柱は欅でできています。太さは一番太いもので周囲が約2.3メートル、長さは約12メートルで丸切石と呼ばれる台座に載っています。礼堂入って右側、大国さんのよこ辺りに古の柱が展示されていますが、これらは周囲が約一尋(約1.8メートル)程度ですので、実際にご覧になれば柱の太さがお分かりになるかと思います。

檜は杉のように真っすぐに一本で伸びてゆくわけではないので、この程度の太さの柱として用いるには相当の樹齢を必要とします。

しかも、柱は木の周りを単に削って円柱にするわけではなく、いったん四角柱にしたものの角を削って円柱状に加工します。具体的には柱の太さ×√2以上の太さの木が必要になります。

現在清水の舞台を支えている柱で一番太いものは樹齢400年以上のものです。現在、このような立派な欅の柱を得ることは困難です。

時に、切り出した欅を柱として用いる場合、樹齢の約2倍の年月の使用に耐えるそうです。現在の本堂が建てられたのは1633年、2019年現在で386年経過しています。樹齢400年とすると、800年もちますから、あと414年間の猶予があることになります。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

つーことは今から植えれば間に合うべ。

これに関してはすでに先手が打たれています。2000年に先ほど申し上げました、33年に一度の秘仏十一面観音像の御開帳が行われました。この時、京都府内に約3,000本の欅が植樹されています。おそらく400年後には大規模な改修工事が行われるかと思われます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

オレは不死身だから見るぜ

尚、柱は、根本の修理が2013年に行われています。これは腐食した柱の下部を根継(ねつぎ)と呼ばれる方法で交換したものです。

シカさん
シカさん

柱の下の部分を切って、新たな材を継ぎ足す工法だよ。

貫(ぬき)

清水の舞台柱

貫とは、柱と柱を横につないでいる部分のことです。これも欅でできています。柱の左右から差し込み、柱の中で噛み合わせてあります。

組み方

清水寺舞台の構造

縦の白っぽい木が柱、横向きの木が貫です。写真の1・2をご覧ください。柱と貫を固定しているのは、これらくさびだけです。釘や鎹(かすがい)は使われていません。すべてくさびのみで固定しています。地震の揺れや腐食に耐えるためにこのような構造になっています。また、3でにあるように、外側には雨除けの屋根のようなものがついています。これも貫の腐食を避けるためのものです。

清水の舞台

先ほどの写真を今一度ご参照ください。貫に各々屋根がついているのがおわかりかと思います。

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舞台からの景色を愛でつつ、願掛け飛び降り

清水寺紅葉

舞台からの景色はこんな塩梅です。その美しさから観音さまがおわします、補陀落浄土に擬制されることもあります。工事が終了すれば、右側に市内全域を望みます。ご覧のように、舞台の上からの眺めは絶景です。しかしながら、明治以前はここから飛び降りる一種の慣行がありました。俗に、重大な決心に則りなにかをすることを、「清水の舞台から飛び降りる」と申しますが、これもこの慣行から来ています。

清水寺千手観音像

ことの始まりは舞台が設置されたと推認される、平安時代末期にまでさかのぼります。この時代は末法思想が流行し、厭世観に包まれ、所謂捨身往生が流行します。捨身往生とは入水、焼身などで命を絶ち、極楽浄土に生まれ変わろうとすることです。先ほど申し上げましたように、舞台からの景色は補陀落浄土にたとえられます。観音様がお住みになる補陀落浄土たる清水の舞台もこれを実践する場所として好まれたようです。この辺りは先ほど申し上げましたように、社伝など公式な記録がないので今一つ推測の域を出ません。

たけちよ
たけちよ

おそろしや~

しかし乍ら、江戸時代になりますと、『成就院日記』という書物が登場します。これは成就院という清水寺の塔頭寺院たる成就院の僧侶が記した日記です。成就院をいうのは、ものすごく簡単に申し上げますと、清水寺と関連寺院の総務と経理や仏像などの維持管理を行っていたお寺です。1694年から1864年までの171年分の詳細な記録が記されています。(ここでは飛び降りではなく「飛び落ち」と記されています。)

この時代になりますと、人々は末法思想の厭世観からではなく、現世利益への願いから飛び降ります。すなわち、「命懸けで飛び降りれば観音様のお慈悲により、命は助かり所願は成就する、さにあらずんば、極楽浄土に行ける」という考えに基づき実行されました。

171年の間の飛び降りは235件、実行したものは234名となっています。件数と人数が合致しないのは、2回飛び降りた人がいたためです。最年少は12歳、最高齢は80歳。(ただし、約7割は10、20歳代)成功した人は200名、亡くなられた方は34名となっています。女性は63人、男性は161人です。合計すると195名ですが、のこりの39名は判別不能です。

げきすせん
げきすせん

合掌

清水寺工事

ただ飛び降りるのではなく、観音様に願をかけて連日参拝したのち、結願日に飛び降りるのが作法だったようです。先ほど舞台の高さは約13メートルの高さと申しましたが、これはビル4階の高さに相当します。思いのほか成功率が高いように見えますが、地面に至るまでに木に引っかかった故に助かったそうです。昔の絵で見ても、現在と同様に木がはえています。江戸時代の飛び降りは歌舞伎などの主題に取り上げられ、全国に遍く流布し、結果、流行してしまいました。

飛び降りた後の始末は成就院と門前町が担当しており、舞台に竹矢来を設けるなど対策をとってほしい旨、町奉行所に苦情をいれたりしています。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

まあ、たまったもんじゃねえよな

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