清水寺参詣曼荼羅とは?
曼荼羅とは、一般的には東寺の立体曼荼羅や後七日御修法などで用いられる、密教の教えを絵で表現したものを意味しますが、清水寺参詣曼荼羅(きよみずでらさんけいまんだら)とは、16世紀に書かれた清水寺とその参道の様子を描いた絵のことです。清水寺のお坊さんがこれを持ち、全国に布教する際に用いました。
ここに描かれるのは応仁の乱後に再興された清水寺です。清水寺は文明9年(1477年)に応仁の乱が収まると、約8年振りに五条(現在の松原)東洞院の仮のお堂から現在の東山に戻りますが、この後の清水寺とその周辺が描写されています。この時復興された清水寺は寛永6年(1629年)の火災で焼失し、三代将軍徳川家光公の寄進により、現在の姿となりました。
すなわち、清水寺参詣曼荼羅で描かれるのは一世代前の清水寺です。参詣曼荼羅は先ほど申し上げました様に、参道から清水寺に至るまでを一枚の絵にまとめてあります。故に、建物の大きさなどはデフォルメされて描かれています。にもかかわらず、本堂の様子や音羽の滝など、現在とほぼ同じものが沢山見て取れます。本投稿ではここで描かれるこれらにつき、現在と比較しつつ、紹介申し上げます。現代の参詣にお役だていただければ幸いです。合掌。
最後に動画で春の清水寺にヴァーチャル乱入するから楽しみにしててくれ
総合ガイドは以下をご覧下さい。
本堂
写真は全部クリックすると大きくなります。
まずは本堂から見てみましょう。当時も現在と同じく舞台があります。現在のものと比べると、若干舞台が前面に出ているようにみえますが、懸造(かけづくり)で作られています。懸造とは断崖などに建造物を構築する工法です。
本堂では男女が合掌しています。これはおそらく夫婦であると思われます。子宝祈願、若しくは安産祈願の最中でしょう。清水寺の御本尊は十一面千手観音像ですが、千手観音は所願成就や産生平穏を司ります。現在は影を潜めていますが、子宝や安産のご利益があります。
いまでも安産の腹帯の授与を受けることができるぜ。
本堂向かって右側の授与所の三宝の上に見本が置いてあるよ。
本堂の下には桜が咲いています。江戸時代には舞台から飛び降りて行う「飛び降り願掛け/飛び落ち願掛け」という願掛けが流行しました。舞台の高さは約13メートルほどありますが、約8割の人は助かっています。この生存率の高さにはこの桜の木が寄与しています。
「観音様のお慈悲で」とか書いといた方がいいんじゃねーのか?
飛び降り願掛けは生きていてもそうでなくても救われるから別にかまへんのちゃう?
詳細は以下のリンクをご覧下さい。
本堂の左側には門があり、橋が架かっています。この門は轟門(とどろきもん)といい、現在も本堂の入り口になっています。橋の下の川は現在は暗渠になっています。橋の手前には手水鉢が見えます。
現在でもほぼ同じ場所に同じように手水鉢があります。この水を飲んで橋を渡らずに帰れば歯痛が治まるといういわれがあります。鎮痛にご利益があるようで、現在でも清水寺では頭痛除けのお守りがあります。龍がいるのは青龍会などでもおなじみのように、観音様が変身したお姿でしょう。
時に、この轟門から本堂に向かう廊下の上にもう一つ懸造の建物があります。これは朝倉堂という建物です。現在でもほぼ同じ位置にありますが、現在は懸造ではありません。江戸時代に刊行された、『都名所図会』や『花洛名所図会』は家光公寄進後の清水寺の様子を知ることができますが、朝倉堂は懸造ではありません。これは寛永6年の火災の後、もともと崖だった所が平にならされたためです。(左の建物が朝倉堂、右が本堂、上にあるのが地主神社です。)
『花洛名所図会』という1864年刊行の地誌に描かれる朝倉堂はすでに現在と同じ構造になっています。
本堂の上にあるのが縁結びで有名な地主神社です。(地主権現)この位置関係は現在とほぼ同じです。当時は桜が咲いていたようです。現在では地主桜と呼ばれる御車返しと不断桜が植えられています。
なんか、酒盛りしてて楽しそうだな。
地主神社の右側には鐘楼があります。この鐘は1478年、応仁の乱後、いの一番に鋳造され、東山に運び込まれたものです。
写真右側には三つのお堂が並びます。上から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院です。この並びも現在と同じです。釈迦堂の上は現在は朱印所になっていますが、当時は地蔵堂がありました。
その下には音羽の滝があります。「清水寺」という名前はこの滝から来ています。
元々は「北観音寺」という名前だったんだよ。
音羽の滝は元来は水垢離をする場所でした。現在は長い柄杓で水をすくって飲むようになっています。三つの滝にはそれぞれ、学問、健康長寿、縁結びのご利益があるといわれます。
参道の様子
それでは、当時の参道を通って先ほどご紹介した本堂に向かいましょう。参詣曼荼羅の左下の所がスタートです。橋が二つかかっていますが、橋の下は鴨川です。現在と異なり中の島があります。橋は当時の五条通、現在の松原通にかかっています。
中の島にはお堂があります。お堂の中に祀られているのは、「出世大黒天」と呼ばれる大黒さんです。清水寺に行かれたことのある方はご存知かと思いますが、轟門をくぐって正面に祀られているあの大黒さんです。
中ノ島を過ぎると東山に至ります。木戸が設けられています。その先にあるのが六波羅蜜寺の地蔵堂です。さらにその先にある塔が八坂の塔です。塔の横に三つの卒塔婆のようなものがありますが、これは熊谷直実が自分の息子と同じ年齢の平敦盛を討ったことやその他の出来事を契機とし、世をはかなみ出家しましたところ、武士の象徴たる弓を三つに追ったものの名残といわれるものです。
『雍州府志』(ようしゅうふし)っつー17世紀の京都の地誌にかいてあったぜ。
私の前にある池は直実公が鎧を洗ったところですよ。
さらに進みますと、茶屋のようなお店が並びます。ここが現在の清水寺門前の所謂清水坂にあたります。
現在ですと、五条坂や清水寺道バス停から東に向かうのが定番ルートですが、当時は少し違っていたということです。
昔は洪水で地形がよくかわったしね。
清水坂の先に見えるのが仁王門です。上の写真では下の門です。
その左下に見えるのが子安の塔です。現在は清水の舞台から見える塔ですが、当時は現在の清水寺警備室の辺りにありました。その左側には馬駐(うまとどめ)と呼ばれる馬を繋いでおく場所があります。
その奥にあるのが西門(さいもん)です。中に人がいますが、これは日想観と呼ばれる修行を行うお坊さんでしょう。日想観とは沈み行く夕日に西方極楽浄土を観、観音様の教えを得んとする瞑想法のことです。(一般には夕日を見て浄土を想うことですが、清水寺では十一面千手観音像がご本尊のためこのように説明されます。)
その上にあるのが三重塔です。これらの建物は子安の塔を除き現在とほぼ同じ場所にあるようです。
三重塔の上にある建物は随求堂のように見えますが、これは成就院というお寺です。清水の舞台の飛び降り願掛けを記録はこのお寺の『成就院日記』という書物に詳細に記載されています。
参詣曼荼羅では、三重塔の右側に本堂がありますが、ここは少し現代とは異なるようです。
それでは最後に、現在の仁王門から本堂までの様子をご覧下さい。合掌。