この記事の構成
- 1ページ目 概説、歴史、御本尊と御利益、御本殿、清水の舞台
- 2ページ目 馬駐(うまとどめ)、狛犬、仁王門、西門(さいもん)
- 3ページ目 虎の石灯篭、鐘楼、随求堂、景清爪形観音
- 4ページ目 三重塔、経堂、田村堂、轟門
- 5ページ目 朝倉堂、仏足石、鉄下駄と錫杖、弁慶の爪痕
- 6ページ目 地主神社、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院、子安の塔
- 7ページ目 四季の行事とアクセス
このページのもくじはこの下にあります。
概説
本稿では、清水寺の歴史、みどころ、七不思議などにつき、わかりやすく解説いたします。最初にご本尊たる千手観音像、ご本殿、ご利益などを論じ、引き続き参拝ルートに則ってみどころなどにつき網羅的に論じ、重要な箇所につきましては各論に譲ります。合掌
清水寺はバリアフリー化されており、車いす等で参拝可能です。
清水寺の歴史と建てられた理由
創建
清水寺とは北法相宗(きたほっそうしゅう)の総本山です(元来は法相宗)。ご本尊は十一千手面観音像を祀っています。
清水寺の発祥は8世紀にまで遡ります。778年、興福寺の賢心(のちに延鎮)という僧侶に観音菩薩から夢のお告げを受け、音羽山に行くように言われ、現在の清水寺の地に至ると、音羽山中に黄金の水流を発見し、滝行中の行叡居士という僧侶に会いました。この僧侶は観音菩薩の化身であり、「後を頼む」旨言い残して去っていきました。この時、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、行叡居士の旧庵に祀ったのがはじまりと言われます。
建てられた理由
その後、坂上田村麻呂が妻の安産のため、鹿に生き血を求めて、東山に入ったところ、殺生を延鎮に咎められ、自宅、若しくは長岡京の紫宸殿を本殿として寄進し、十一面千手観世音菩薩を祀ります。これらが現在の清水寺の創建の縁起とされています。
平安時代
平安時代には、貴賤の区別なく崇敬を受け、嵯峨天皇の勅許により公認寺院となり、『源氏物語』や『枕草子』には当時の様子が詳らかにされています。また、所謂”清水の舞台”がつくられたのもこの時代です。密教との兼宗もこの時代にはじまります。
当時、清水寺は奈良の興福寺の末寺であり、延暦寺の末寺たる祇園社(神仏習合時代の八坂神社の名称)と南都北嶺の抗争の最前線に立たされ、幾度も襲撃を受けています。
ちと時代は下がるけど、『明月記』(藤原定家の日記)によると清水寺は城塞みてえで、仲裁に入った検非違使が破壊したらしいぜ。
鎌倉~室町時代
1188年、阿弥陀堂で法然上人による初の念仏の道場となります。また、一般に源義経と弁慶の邂逅は五条大橋(現在の松原橋)をされていますが、『義経記(ぎけいき)』では清水の舞台上とされています。
さっきの『明月記』の続きになんだけどよ、1214年には清水寺の僧の一部がクープデタットかまして、清水寺を延暦寺に寄進して、約一か月間、清水寺は延暦寺の配下だったことがあんのよ。結局は宣旨で元の鞘に収まったんだけどな。
クーデターって読むんだよ。
応仁・文明の乱では伽藍が焼失し、五条東洞院に疎開します。乱が収まった後、勧進僧(日本中を回って勧進、i.e., 布教、寄付を募る行為をする僧侶)の活躍などにより、梵鐘を皮切りに復興されます。
清水寺参詣曼荼羅ができたのもこの時だよ。
江戸時代
清水寺は度々火災に見舞われていますが、直近の大火は1629年に発生し(寛永の大火)、この時、後述します馬駐、仁王門、鐘楼、春日社、子安の塔を残し、御本堂を含めて全焼します。現在の本堂をはじめとする諸堂は徳川幕府三代将軍、徳川家光公が寄進したものです。千日詣りもこのころから盛んになります。また、この時代は清水の舞台からの飛び降りの詳細な記録が残っています。
近代(明治時代~令和)
明治時代初年の神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈により、塔頭寺院の廃院、寺領の没収などに見舞われますが、関係者の尽力ならびに信仰心により復興します。尚、廃仏毀釈の難を逃れた石仏が境内に集められており、今日でも参拝することが可能です。
清水寺ってよー、檀家がねーから、スゲー大変だったのよ。
地主神社(地主権現)も神仏分離令により独立したよ。現在は工事のため、2024年の12月まで拝観停止だから注意してね。
後述します鉄製の錫杖や下駄が寄贈されたのも明治時代です。また、子安の塔も現在の位置に移されました。
1965年に南都六宗の法相宗から独立して、北法相宗の寺院となります。1995年には古都京都の文化財の一つとして、世界遺産に登録されました。2008年からは所謂”平成の大改修”、すなわち御本堂を含めた諸堂の解体修理がはじまります。御本堂は屋根の葺き替えと舞台の張替えがなされ、令和二年/2020年に12月に舞台の立ち入り禁止が解除され、12年に渡った大改修が終了しました。
翌朝の様子だ。工事の様子は以下を参照してくれ。
御本尊とご利益
十一面千手千眼観世音菩薩
清水寺のご本尊は十一面千手千眼観音菩薩立像です。平生は内々陣の厨子の中に秘仏として奉祀されていますところ、『観音経』の三十三身応化・衆生救済に則り、原則として三十三年に一度、開扉・公開されます。(直近の御開帳は2000年)厨子(御本堂と共に国宝)の前には「お前立ち」と呼ばれる複製の立像が置かれています。(ご本尊に比べ少し小さい)
ご本尊を直接拝見することはできませんが、お前立ち、若しくは御本堂礼堂(靴を脱いで上がって参拝するところ)の上の方(欄間・赤い丸でかこんであるところ。写真は大黒さんの左側からみたところ)にある御正体(みしょうたい)と呼ばれる円盤状のものを介して礼拝することができます。
一心に「南観世音菩薩」と唱えることにより、七難から救ってくださる菩薩です。十一面ですべての人の悩み、病苦、悪心などを看取し、千本の手で取り除いて下さいます。通常の千手観音像は四十二臂ですが、清水寺のご本尊は「清水式(せいすいじしき)」と呼ばれ、二臂多く、頭上で化仏たる釈迦如来像を戴いています。
簡単にいうと、あらゆる手段を用いて助けて下さり、これを体現している菩薩だってことだよ。
御本堂の出口のとこによー、「慈眼視衆生 福聚海無量」って書いてある額があんだけど、これは『観音経』の最後のとこの文言で上に述べたことを表してんのよ。
いわゆる七難から救ってくださるなど様々な現世利益があります。とりわけ、坂上田村麻呂公が安産への謝意が本願になっていることもあり、現在は希薄化していますが、安産のご利益があります。また、東征に際して観音菩薩の助けにより苦難を逃れることができたことから、勝負運のご利益もあります。
脇侍
一般的には観世音菩薩の脇侍は婆藪仙人、大弁功徳天ですが、清水寺の脇侍は向かって左側に勝軍地蔵菩薩立像、右側に勝敵毘沙門天立像がそれぞれ秘仏として厨子内に祀られています。これらは以下の逸話に基づきます。
すなわち、坂上田村麻呂公が東征の際に、延鎮上人が地蔵菩薩と毘沙門天像を渡したました。戦場で苦難にあった田村麻呂公が観世音菩薩の名を念じたところ、老僧と老翁に姿を変えた地蔵菩薩と毘沙門天が助けてくれたため、勝利を得ることができました。
平安京の守護も西北は愛宕山の将軍地蔵菩薩、東北は鞍馬山の兜跋毘沙門天だよ。
この縁起の仔細はよー、後で説明する御本堂の一段高くなってて靴脱いで上がって拝むところ(礼堂)で踵を返して上を向くと視界にはいってくる日本で一番でけえ絵馬(縦3メートル、横10メートル)に書いてあんだけど、暗くてよく見えねえ。海北友雪作なのにもったいねー話だけどな。
両脇侍も厨子(国宝)の中に祀られているため、御正体を介して礼拝することができます。(お前立ちは観世音菩薩のみ)
礼堂内の御正体は1633年の再建の時にかけられたものです。
二十八部衆・風神雷神
須弥壇上には厨子の脇に二十八部衆、風神雷神像が祀られています。二十八部衆とは観世音菩薩の眷属で、観世音菩薩と信者を保護してくれます。また風神雷神像も祀れれています。これらは三十三間堂のものを模したといわれています。
出世大黒天
後述します轟門をくぐると視界に入ってくる仏像が出世大黒天立像です。500年ほど前から参拝者を見守っています。もともとは鴨川にあった中の島のお堂(二枚目の写真の左下。清水寺参詣曼荼羅)におられましたが、現在は御本堂礼堂におわします。(行事などがあると移動されます)商売繁盛などのご利益が有名ですが、大国主命と習合していたため、縁結びのご利益もあります。
大黒さんがの後ろが光ってるのは10月のピンクリボンライトアップの時に撮ったからだ。普段は光ってねえ。
御本殿
御本堂
先ほど申し上げました様に、清水寺の創建は788年、現在の御本堂は1629年の大火の後の1633年に再建されたものです。正面は約36メートル、奥行きが約30メートル、面積は約982㎡です。礼堂(外陣)と内陣、内々陣からなり、礼堂と舞台は崖からせり出しています。この構造は「崖造り」とか「懸造り」と呼ばれ、舞台は18本の樹齢400年の楓の柱により支えられています。
上の写真を参照してくれ。1の柱から2の柱の間が礼堂の廊下、2~4とその奥の柱までが礼堂で、その奥が内陣だ。内陣と礼堂のごく一部が崖の上にあって、以降は空中にあんのよ。オレ達が入れんのは礼堂までで、内陣より先は千日詣りの時だけ参拝可能だ。
御本堂の屋根は檜皮葺という工法で作られています。先の「平成の大改修」で葺き替えられました。ヒノキの樹皮を何重にも重ね、竹の釘で束ねてあります。よく、釘は使わないといわれますが、屋根自体は20センチくらいの鉄の釘で固定されています。今回の改修では、創建当時の厚さ、約16センチほどに戻されたそうです。檜の樹皮は木の表面を剥ぐので、檜が死んでしまうことはありません。よく、檜皮葺の屋根に苔などが生えているのを目にしますが、傷んでいるのではなく、苔のおかげで却って強固になっています。屋根の面積は約2000平米と大変な広さになっています。
御本堂はご本尊の十一面千手観世音菩薩像などが安置される正堂と我々が参拝するときに入る礼堂という二つの建物からなり、礼堂に舞台がくっついています。正堂が崖の淵に建っていて、崖からせり出した部分に、礼堂と舞台があります。これは元来崖の上にあったお堂から発展して現在の規模になった事実を補強する証左と解されます。
礼堂内からは千手観音菩薩はお前立ち並びに御正体、地蔵菩薩と毘沙門天は御正体を介して礼拝することができます。また、般若心経の奉納も可能です。
写真の真ん中が廊下で、左側が舞台、右側の一段高いところが礼堂で、靴を脱いで上がることができるよ。
踵を返しますと、先ほど申し上げました坂上田村麻呂公の東征の様子を描いた日本最大級の絵馬をはじめ多数の絵馬(大絵馬)が懸けられています。
絵馬っつーのは文言から明らかなように、絵のお馬さんのことよ。昔は祈願なんかのために馬を奉納してたんだけど、次第に簡略化されて、今日の絵馬(小絵馬)になったっつーいきさつがあんのよ。
貴船神社がその発祥の地とされてて、もともとは晴雨の祈願のために奉納されていたんだよ。
清水の舞台
御本殿前方には舞台があり、懸造りと呼ばれる工法で造られており、78本の柱で支えられています。高さは約13メートル、面積は約190㎡あります。創建当初からあったものではなく、文献から窺知するに11~12世紀頃に舞台がつくられたものと考えられます。
次に舞台の構造についてみてみましょう。舞台は緑色の部分が舞台です。床面は総檜張りです。先の「平成の大改修」で張替えられました。
舞台は「懸造」と呼ばれる工法により作られています。これは崖の上に建物を建てる場合に使われるもので、白線が内内陣、黒い線が内陣です。青い線の礼堂、赤い線の廊下、緑の線の舞台になっています。舞台は内々陣に奉祀されている諸仏に奉納するためのもので、大きな法要の折には能などが奉納されます。
柱は欅でできています。太さは一番太いもので周囲が約2.3メートル、長さは約12メートルで丸切石と呼ばれる台座に載っています。
柱は木の周りを単に削って円柱にするわけではなく、いったん四角柱にしたものの角を削って円柱状に加工します。具体的には柱の太さ×√2以上の太さの木が必要になります。
現在清水の舞台を支えている柱で一番太いものは樹齢400年以上のものが用いられていますところ、切り出した欅を柱として用いる場合、当該欅の樹齢の約2倍の年月の使用に耐えるそうです。
現在の本堂が建てられたのは1633年で、当時の樹齢が約400年です。2023年現在で390年経過しています。樹齢の2倍は800年ですから、あと400年程の猶予があることになります。
ときに、2000年に先ほど申し上げました、33年に一度の秘仏十一面観音像の御開帳が行われましたところ、これを契機として400年後に備えて京都府内に約3,000本の欅が植樹されました。
貫とは、柱と柱を横につないでいる部分のことです。これも欅でできています。柱の左右から差し込み、柱の中で噛み合わせてあります。
各々の柱は貫(ぬき)によって繋がれています。縦の白っぽい木が柱、横向きの木が貫です。柱と貫を固定しているのはくさび(1、2)だけです。釘や鎹(かすがい)は使われていません。すべてくさびのみで固定しています。地震の揺れや腐食に耐えるためにこのような構造になっています。また、外側には雨除け(腐食を避けるため)の屋根のようなものがついています。
先ほどの写真を今一度ご参照ください。貫に各々屋根がついているのがおわかりかと思います。
舞台の下の谷は錦雲渓と呼ばれ、その美しさから観音さまがおわします、補陀落浄土に擬制されます。明治以前はここから願掛けのため飛び降りる一種の慣行がありました。俗に、重大な決心に則りなにかをすることを、「清水の舞台から飛び降りる」と申しますが、これもこの慣行から来ています。
歌舞伎などの主題に取り上げられ、全国に広まったからね
江戸時代の『成就院日記』という塔頭寺院の成就院に残る書物には、1694年から1864年までの171年分の飛び降り願掛けの詳細な記録が記されています。(ここでは飛び降りではなく「飛び落ち」と記されています。)「命懸けで飛び降りれば観音様のお慈悲により、命は助かり所願は成就する、さにあらずんば、極楽浄土に行ける」という考えに基づき実行されました。
ただ飛び降りるんじゃなくて、観音様に願をかけて連日参拝したのち、結願日に飛び降りたみてえだ。ただし、単に世の中が嫌になって飛び降りた人もいたけどな。二回かました猛者もいるぜ。
171年の間の飛び降りは235件、実行したものは234名(2回実行した人がいるため)。年齢は12歳~80歳。(ただし、約7割は10、20歳代)成功した人は200名、亡くなられた方は34名となっています。
舞台下にある桜の木に引っかかって助かったことが多かったみたいだよ。詳細は以下のリンクを参照してね。