通し矢の歴史
通し矢の発祥はよくわかりません。正月の礼射として鎌倉時代からあったようです。天正年間に今熊野観音堂の別当(神仏が習合していた明治以前に、神社を管理していたお寺えを統括していたお坊さん)がなんとなく、お堂に矢を通してみたところ、大流行したといわれています。
当時は、初夏の夕方から初めて翌日の同じ時刻まで、24時間の間に何本の矢を通すことができるかを競いました。(通すとは当てるの意)これを大矢数と呼びます。先ほどご紹介しましたように、元服前の男子は半分の距離を通し、半堂射と呼ばれました。
他にもあらかじめ射る矢の数を決めておいて、的中率を競う百射、千射と呼ばれる競技もありました。
いずれも現在とは異なり、南から来たに向けて矢を射ていました。上の写真ですと、奥から手前に向けて矢を射ていたことになります。
もっとも人気があったものは大矢数で、江戸時代になると、藩の名誉をかけた戦いになります。最高記録は紀州藩の和佐大八郎という人が貞享3年(1686年)に打ち立てたもので、矢数は13,053本、的に当たった矢は8,133本というものです。1時間あたり544本、1分当たり9本の矢を放ったことになります。この条件下での命中率は62パーセントです。最後に行われたのは、明治28年(1895年)です。
体力もさることながら、精神力も試されるな
おそろしや~
この後、いったん途絶えますが、昭和26年(1951年)に復興され、今日まで続いています。
三十三間堂を参拝すると、観音様が祀られている所の裏側にいけますが、ここに、弓や矢、奉納された絵馬などが展示されています。また、矢が沢山刺さった柱の一部も展示されています。
また、三十三間堂の軒下にも屋の跡、柱を矢から守るための金属のカバー、天井に刺さった矢などを目にすることができます。ただし、通し矢当日は軒下にはいけませんので、見ることはできません。
三十三間堂概説
三十三間堂は後白河上皇が創建した蓮華王院というお寺にあった蓮華王院本堂という建物です。(これが正式名称)他にもお堂などが沢山ありましたが、寿永2年(1183年)木曽義仲の夜襲にあい、蓮華王院本堂を残し、焼失してしまいました。
三十三間堂というのは、この本堂のそとから見た長さが33間(約60メートル。一間は約1.8メートル)という意味と考えたくなりますが、実際は異なります。すなわち、「三十三間」とは、柱と柱の間が33個あるという意味です。
でも、このまえ数えたら、35面あったよ。
オレにまかせろ
上の図は三十三間堂を正面からみた図で、長方形は柱です。
三十三間堂の広さは、間面記法という建物の広さを表す方法で「三十三間四面」と表されます。これは「母屋の正面が柱間が33あり、庇が4面に出ている(母屋の四方を囲んでいる)建物」という意味です。柱と柱の間の長さは区々です。(あまり厳密な表記方法ではありません。建物の概ねの大きさを推し量る基準です。)
三十三間堂の「母屋」に該当する場所は、千手観音像が並んでいる台の幅と同じ長さで、柱間は33面あります。で、この33面に加えて、四隅に庇を支えるための柱が4本立っていると考えてみて下さい。これを横から見ると、35面あるように見えるわけです。
あくまでも母屋の横が33間なんだね
詳細は以下のリンクを参照しくれ
さらに、三十三間堂の柱の間の長さも区々ですので、計算するとさらにややこしいことになりますので、ここでは省きますが、外から見た全長は約120メートルあります。本堂は国宝に指定されています。
母屋の中には、千体千手観音像立像が祀られ、国宝に指定されています。また、堂内の木造風神雷神像は俵屋宗達の「風神雷神図屏風」のモデルになったといわれています。
当日のアクセス
京阪の利用を推奨します。
三十三間堂最寄りのバス停は三十三間堂前バス停です。86, 88, 100, 110, 206, 208の各系統が止まりますが、当日の利用は推奨しません。なぜかと申しますと、当日は約2,000人の参加者、通し矢を見に来る人の多くがこのバス停を利用します。また、当日は三十三間堂で柳枝のお加持という行事が行われ、かつ、拝観料は無料なためさらに多くの人が訪れます。
加えて、これらの系統は清水寺・祇園への京都駅からのメインルートとなっていますので、大変混雑します。特に帰りが大変です。
バスはやめとけ~
そこで、当日は京阪の七条駅の利用を推奨します。徒歩約10分程度です。
また、京阪(電車)、ザ・サウザンド キョウト、京都センチュリーホテルを利用されている方は、京阪100円バスを利用できます。京阪七条駅、並びに上記のホテルで「乗り継ぎ割引券」という券がもらえます。詳細は京阪のサイトをご参照ください。