この記事の構成
- このページ 2023年最新、日程、葵祭概説:歴史など
- 2ページ目 斎王代詳細解説
- 3ページ目 路頭の儀:勅使代行列
- 4ページ目 路頭の儀:斎王代列、路頭の儀タイムスケジュール
- 5ページ目 社頭の儀@下鴨/上賀茂神社
- 6ページ目 日程:曲水宴、足汰式、流鏑馬
- 7ページ目 斎王代御禊の儀、歩射神事、賀茂競馬、御蔭祭
- 8ページ目 当日のタイムスケジュール、有料観覧席
- 9ページ目 御所、下鴨神社、上賀茂神社へのアクセス
- 10ページ目 2023年までの突撃レポート
このページのもくじはこの下にあります。
前儀 2
斎王代禊の儀(さいおうだいぎょけい/ごけいのぎ)5月4日
Overview
先ほどご紹介しました斎王御潔の現代版です。斎王代をはじめ、女人列に参列する女性が下鴨神社の御手洗川で身を清めます。(隔年で下鴨神社の御手洗川と上賀茂神社のならの小川で行われます。今年は上鴨神社で行われます。写真は昨年の様子です。)元来は鴨川で行われていましたが、現在では、上賀茂神社と下鴨神社の御手洗川で隔年交代で行われています。詳細は以下のリンクを御参照ください。
於下鴨神社
取り急ぎ作成しました令和元年の斎王代御禊之儀の様子をご覧ください。
下鴨神社の場合、斎王代禊の儀は撮影場所が限られています。ご覧の白いテントが関係者席、赤いコーンが置いてあるところはプレス用の撮影場所です。一般はこの写真の左手のわずかな場所から撮影となります。
目の前には木があり視界を遮ります。これは仕方ないので、あきらめます。ただし、禊(川に手を浸すところ)自体の撮影を優先しました。この後、撮影隊は今日もお馬さんと楽しい時間を過ごします。
午前10時過ぎ、雅楽の音とともに、女人列が入ってきます。この後雛壇に着いた女人列、参列者をお祓いした後、斎王代と童女(わらわめ)が御手洗川に向かいます。
十二一重は裾が長い上に重いのでかなり歩くのが大変なようです。
手を水に浸している時間は2~30秒くらいです。
その後、竹(斎串。いぐし)に挟んであった紙(形代。かたしろ)で手をぬぐい、紙を御手洗川に流します。
この後女人列は神服殿に移動します。
神服殿とは、夏と冬の御神服を奉製した場所で、のちに勅使殿/到着殿として機能した建物です。普段は非公開ですが、特別公開の時だけ内部を見学できます。
於上賀茂神社
今年の上賀茂神社で行われた御禊の様子をご覧ください。
古武道奉納
全国から集まった武道家の方々が披露されます。写真は薙刀剣術。
歩射神事(ぶしゃしんじ) 5月5日
これは路頭の儀で勅使が通る楼門、沿道を清めるために行われます。
小笠原流の人たちが楼門から入って来て、この後本殿で神事を行います。小笠原流は鎌倉時代に始まり、礼法・弓術・弓馬術などの武家故実を一子相伝で伝える流派です。
次に屋越式と呼ばれる儀式が行われます。これはご覧のように勅使が通る楼門(司会の方は三門と呼んではりました)の上に矢を放ち、楼門の邪気を祓います。
この矢は「蟇目矢(ひきめや)」といいます。蟇目とは上の写真の矢の先端についている赤いものです。これに穴が開いていて、矢を放つと、「ひゅん」と音がします。この音で邪気を祓います。
これはこの後行われる「百手式(ももてしき)」で使われる矢です。この矢には蟇目はなく、鏃(やじり)がついているだけですね。
これが「百手式(ももてしき)」の様子です。元来は10人の射手が10手(一手で矢を二本射ります。)がの矢を射ることからこう呼ばれます。現在では、前弓・中弓・後弓の三組に分かれた七人が矢を一手ずつ射ます。
この歩射神事は宮中の「射礼の儀(じゃらいのぎ)」に基づくものです。
菖蒲の根合の儀 5月5日
元来は宮中で、菖蒲の根の大小を競う行事でした。上賀茂神社では御祭神の賀茂別雷大神に競馬を見ていただくため、御分霊を頓宮をいう仮のお宮に御移しする「頓宮遷御の儀(とんぐうせんぎょのぎ)」が行われます。この後、頓宮の屋根を菖蒲で清め、根合わせを行います。
賀茂競馬(かもくらべうま) 5月5日
2023年は開催が決定しました。今年で930年目です。
競馬は「くらべうま」とは二頭の馬が競うもので、複数の馬が競うものを「けいば」と呼びます。
賀茂競馬の起源は1093年に堀川天皇が天下泰平、五穀豊穣を祈願するため、宮中武徳殿の競馬の儀式の一式が上賀茂神社に移し、競馬料として20か所の荘園の寄進を受けたことに始まります。(ただし、現実の恒例化されるのは12世紀後半くらい)
- 4/28 馬を牽き走品を定める
- 5/5 騎射、走馬、菖蒲献上と続命縷(しょくめいる。端午の節句の飾りたる、邪鬼を払うための薬玉)の下賜
- 5/6 騎射、競馬、雑技などの馬芸
宮中武徳殿の競馬そのものは、五月五日の節会の一環として1093年以前から行われており、『続日本紀』に記載される701年が最古の記録で、968年に断絶し、各行事に分岐します。
競馬は臨時競馬(従前の節会の競馬に対して「臨時」と称される)に、菖蒲献上は衛府(えふ。警備をする機関)による献上、若しくは屋根の上に菖蒲を葺く儀式に移行しますところ、賀茂競馬はこれを承継します。
そういえば、1892年には当時皇太子だったニコライ2世が大津事件の前日に御所で賀茂競馬に参加する馬を見ているよ。
オレ?
上賀茂神社はご祭神の賀茂雷大神が神山に御降臨された際にも、ご神託により走馬を行う、または、葵祭の契機とされる祭でも馬を走らせるなど、馬とは不可分の関係にあります。今日でも日本でも数少ない(十社程度)神馬を有する神社です。
詳細は話すと長くなるから、以下のリンクを参照してくれ
実際に走り出すのは3:10過ぎくらいからです。
献花祭 5月7日
遠州正風宗家により献花が行われます。
御蔭祭 5月12日
前儀の中では、最も有名かつ大規模なものです。比叡山麓の御蔭神社から、新たにお生まれになった下鴨神社の御祭神の荒御魂を下鴨神社にお連れする儀式です。
ひとまず、切芝神事の様子をご覧ください。
各神事のみどころ、一日で全部を回るコースなどは以下のリンクを御参照ください。
御蔭祭の行列は我が国最古の神幸祭の態様を表すとされてんだけど、下鴨神社の社記によると、御祭神たる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は八咫烏であり、神武天皇をお導いたときの様子を擬制したと考えられんのよ。
御阿礼神事(みあれしんじ) 5月12日
同日、上賀茂神社は、御阿礼所(みあれどころ)というところで、神様を迎える神事が行われます。(非公開)本殿のうしろ約500メートルのところにある御生所(みあれところ)で神籬が設けられます。本殿ー御生所ー神山は一直線でつながっています。四間四方で厳重に囲われた垣の中にある阿礼木と呼ばれる榊に御祭神に降りてきていただくようです。宮司以下諸役員の方が榊を持って秘歌を黙奏しながら、(本殿の左の方にある)新宮神社を経由し本殿に戻ります。榊は本殿前の棚尾社に二本、東切芝遥拝所に三本をたて、本殿で祝詞が奏上され、阿礼棒という棒(串)に神霊をお迎えします。
上賀茂神社の御阿神事は夜の8時から斎行されます。
びわ湖堅田供御人行列・鮒奉献式 5月14日
「びわこ かたた くごにん ぎょうれつ・ふなほうけんさい」と読みます。堅田とは現在の滋賀県大津市の一部で、11世紀後半に下鴨神社の支配の下に置かれ(i.e. 荘園)、「堅田御厨(かたたみくりや)」と呼ばれました。御厨とは神饌(神様の食物)を用意する建物のことですが、転じて神饌の調達地を意味するようになりました。この地の漁民の方々は鮒(琵琶湖名物。献上品。鮒寿司が美味しいですよ。)などを納める代わりに、荘園の租税を免除されていました。当時の伝統に則り、現在でも葵祭に際し、鮒を献上しておられます。
ちなみに、下鴨神社の大炊所(神饌を準備するところ、i.e. 御厨)が特別公開の折に見学でき、神饌をみることができます。
次のページは葵祭当日だよ。