概説
伏見稲荷大社は711年の創建より、1,300年以上の歴史を有します。本稿では創建以前から現代まで、時代ごと特色を紹介申し上げます。合掌
伏見稲荷創建以前
現在の伏見稲荷大社(以下、伏見稲荷)は稲荷山の麓に鎮座します。稲荷山周辺は、多分に漏れず、古来より神奈備信仰の盛んなところでした。神奈備信仰とは、神、御霊が宿る山、森林などを擁する地域に対する信仰を指します。生命に必要な水、土壌、作物などの源たる山はその対象として最も典型的なものの一つです。5世紀頃に陰陽道が伝来すると、水に対する謝意・畏怖から、龍蛇神信仰が生じます。
もともとよー、伏見稲荷できる前はヘビさん信仰がけっこうでかかったのよ。ヘビは水の神様と同時に、穀物をネズミさんから守ってくれたりして、農業とも関係が深いのよ。あとで説明かますけど、お稲荷さんってのは、稲作の神様なのよ。まー、お稲荷さんが祀られる前からその下地があったてことだな。
いまでも伏見稲荷のお札には米俵とヘビさんが描いてあるよ。気になった人はご本殿横のお守りとか売ってるとこの見本を見てみてね。
伏見稲荷創建
伏見稲荷創建については諸説ありますが、本稿では、伏見稲荷や『二十二社註式』が採用する711年説に依拠します。
創建の謂れは『山背国風土記』によると、”かつて、稲荷山の近くに伊呂具秦公という、稲作で富んだ人がいたところ、餅を的にして矢を射ったところ、餅は白い鳥となって飛んでいき、山の上に降りたところ、その場所に稲が生えたので、社の名にした。”とあります。
稲が生えたという表現は原文では”伊禰奈利” i.e., 稲(イネ)生(ナリ)となってるよ。
この逸話からは、伏見稲荷の御祭神が宇迦之御魂大神である理由が窺知されます。すなわち、「宇迦」は食物や穀物を意味しますからね。
8世紀になると、宇迦之御魂大神に加え、佐田彦大神と大宮能売大神の二柱が祀られるようになります。佐田彦大神は天孫降臨に際し瓊瓊杵尊を導いた国津神たる猿田彦命、大宮能売大神は天皇守護を護る神様です。
東寺の鎮守社となる
9世紀になると、伏見稲荷は東寺の鎮守社となります。鎮守社とは、神仏習合下に於ける仏教寺院を守護する神社のことです。
826年、東寺の五重塔の建設が始まりましたところ、時を経ずして、淳和天皇が病に臥せります。占いの結果、五重塔建設のために稲荷山から木を伐りだしたことが原因だと判明します。朝廷は直ちに伏見稲荷に対し従五位下の位階を授けます。
ここは見落としがちだけどよー、神社には正一位とかいろいろ位階があんべ?位階っつーのは、人に授与するもんなのよ。これがなんで神社に授与されるかっつーと、神様っつーのは自然や自然現象に人格を擬制してるからなのよ。詳細は以下を参照してくれ。
次いで10世紀になると、朝廷はさらに最も高い位階たる生一位を授与します。この頃になると、伏見稲荷は京都でも最も人気のある神社の一つとなります。『枕草子』では、初午祭の様子が描写されています。
『うらやましげなるもの』で稲荷詣(山に登らなければならない)をした際に、道すがらあった女の人が一日に7回も登ると意気込んでいるのをきいて、「いいなー」って言ってたよ。
中世
伏見稲荷は先程紹介しました三柱の御祭神に加え、新たに二柱の神様を祀るようになります。田中大神という田んぼの神様と四大神(しのおおかみ)という四季の神様です。
これに加え、神仏習合がすすみ、宇迦之御魂大神は荼枳尼天と習合します。荼枳尼天とは、インドの地母神で、豊穣や母性を象徴し、キツネさんを眷属とするとされました。この混淆により、宇迦之御魂大神の眷属もキツネさんになりました。
詳細は以下のリンクを参照してね。
応仁・文明の乱
1467年、畠山氏と司波氏、斯波氏の家督争い、足利将軍家の後継者問題などが複雑に絡みあい、応仁・文明の乱が始まり、10年間続きます。結果、京都は壊滅的な打撃を受けます。
伏見稲荷では社家間の争いが東西に与して苛烈な戦いが繰り広げられました。他方、時を同じくして、勧進が始まります。勧進とは、全国に行脚し社寺の創建や修繕の費用を集める行為を指します。勧進僧と呼ばれる僧侶が当該社寺の謂れやご利益などを説きつつ、喜捨を集めました。これにより、伏見稲荷は応仁・文明の乱からの復興が可能になりました。
清水寺の参詣曼荼羅も勧進の時に使われたんだよ。
江戸時代
先ほどの勧進僧が行脚したことにより、お稲荷さん、すなわち宇迦之御魂大神に対する信仰が全国に広まりました。そして、ご利益たる農業での豊穣は商売繁盛や家内安全に拡張され、それらとお稲荷さんとの紐帯は堅固なものとなります。殊に江戸ではこれが顕著で、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」が江戸でよく目にするものとして揶揄されたしりました。また、商売繁盛のご利益にあやかる鳥居の奉納もこの時期に開花しました。
神仏判然令
1868年、明治政府は王政復古を盤石にすべく、千年以上続いた神道と仏教の峻別を企図し、神仏分離令/判然令という、今日でいう通達のようなものでこれを実行します。社寺は神社たるか、若しくは仏教寺院たるかの選択を迫られます。
立憲君主制だったんだけど、兎に角そうなったのよ。ヤギはヘビ文字の記事でこれを説明するとき、わかってもらえるかいつも悩んでるけどな。
しかしながら、個人の内心は不可侵だったようで、人々は「お塚」という小さなお社を稲荷山に無断で作り始めます。霊媒師に頼んで、当該個人に相応しい神様を教えてもらい、それらの神様を祀りました。今日、稲荷山のお塚には馴染みが浅い神様が祀られているのはこのような理由によります。
今日
伏見稲荷は今日では、多くの人、殊に会社関係の人々や海外からの観光客の皆さんの羨望の場所の一つとなっており、年間1,000万人が訪れます。
About Fushimi Inari Taisha
伏見稲荷大社基本情報
伏見稲荷大社へのアクセス
JR 奈良線
稲荷駅の目の前。普通のみ停車
京阪
伏見稲荷駅から徒歩約5分。朝の急行、準急、普通のみ停車