この記事の構成
- 1ページ 2026年最新情報、日程、祇園祭の歴史など概要、2026年の注意点、みどころ総論
- 2ページ みどころ1 神事、みどころ2 神賑行事、有料観覧席、、クラウドファンディング
- 3ページ 交通規制、各山鉾のご利益、鉾建日程、会所日程
- 4ページ おすすめ日程、行事、巡行鑑賞スポット
- 5ページ 日程1:夏越の祓、神用水清祓式など
- 6ページ 日程2:鉾建て、神輿洗いなど
- 7ページ 日程3:前祭宵山
- 8ページ 日程4:前祭巡行など
- 9ページ 日程5:後祭宵山
- 10ページ お稚児さん解説、神輿解説、山鉾の区別の仕方
- 11ページ 前祭山鉾解説1 長刀鉾、函谷鉾、月鉾、鶏鉾、放下鉾
- 12ページ 前祭山鉾解説2 岩戸山、船鉾、山伏山、孟宗山、太子山、郭巨山
- 13ページ 前祭山鉾解説3 保昌山、油天神山、四条傘鉾、蟷螂山、伯牙山
- 14ページ 前祭山鉾解説4 木賊山、霰天神山、白楽天山、芦刈山、占出山、綾傘鉾、布袋山(休み山)
- 15ページ 後祭山鉾解説1
- 16ページ 祇園祭関連施設、参考文献
- 17ページ 2025年突撃レポート
- 18ページ 2024年突撃レポート
- 19ページ 2023年突撃レポート
- 20ページ 2022年突撃レポート
- 21ページ 2021年突撃レポート
このページのもくじはこの下にあります。
山鉾の授与品と御朱印 前祭4
木賊山(とくさやま)の解説 授与品と御朱印
木賊山の創建は比較的新しく、文献上の初見は「祇園会山鉾考」(1624)です。当時は能楽が盛んであったためか、世阿弥作の謡曲「木賊」に取材しています。本謡曲は鎌倉時代末期の「夫木和歌抄」収録の”木賊刈るその原山の木の間より みがかれ出づる秋の夜の月”という歌から創作されたものとされています。その内容は父と生き別れになった父を探してお坊さんと故郷の信濃国に赴いたところ、木賊を刈っている老翁と出会います。老翁は息子を探すために旅人を泊めていましたところ、老翁は若松の父だったというあらすじです。
ご神体たる老翁は奈良仏師春日の作とされ、17世紀後半の作のようです。(足台に墨書がある)悲壮感が漂う面立ちですが、謡曲の結末は上記の通り。
謡曲「木賊」に基づきます。我が子をさらわれた、呆然と木賊を刈る翁が御神体になっています。
霰天神山の解説 授与品と御朱印
永正年間(1504~1520)の大火に際し、霰が降ってきたところ、たちまち火が収まったとの言い伝えがあります。この時、一寸二分(約3.6センチ)の天神像が一緒に降ってきたため、この像を御神体として祀ったことから、霰天神山、若しくは火除天神山と称されました。
「祇園社記」には「天神(とびうめ)山」と記載されますが、1500年の籤定次第には「天神山山」と記載されていますが、先述の逸話に鑑み、これらは今日の霰天神と全く同じ山ではなさそうです。この逸話に鑑み火伏せのお守りが頒布されます。前掛けのタペストリーは鯉山のものとほぼ同時期の作です。
白楽天山の解説 授与品と御朱印
白楽天山も応仁の乱以前から存在する山です。「祇園社記」には「白楽天手かき」と記載され、1500年の籤定次第には「白楽天山」と記載されています。唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うたところ、「悪いことをせずに善いことをすること」であると答えたので、白楽天は「そんなことは三歳の子供でも知っている」と反駁したところ、「しかし乍ら80歳の翁でも難しい」と返した説話に取材しています。御神体は白楽天(傘の下)と道林禅師(袈裟を着ている)の二者です。前掛のタペストリーは鯉山のものと同様トロイヤ戦争?(Trojan Warのこと)の一場面を描いたもので、トロイ陥落の様を描写しています。1860年に蟷螂山から買い受けたものですが、どのような経緯で蟷螂山にもたらされたかは不明です。
芦刈山の解説 授与品と御朱印
「祇園社記」には「すみよし山」という山が現在の芦刈山町からでていたようですが、今日の芦刈山との同じものかは不明です。1500年の籤定次第には「あしかり山」と記載されており、少なくとも応仁・文明の乱以降は現在の芦刈山と同様と解されます。平安時代の歌物語たる「大和物語」に取材しています。難波に住む夫婦が困窮して別れた後、妻は都で乳母として仕えていたところ、夫のことが気掛かりであったので、探しに行ったとこと、男は己を恥じて「君なくて 芦かりけりと思ふにも いとど難波の浦ぞ住みうき」とよんだところ、妻は「あしからじとてこそ人の別れけめ なにか難波の浦も住みうき」と返し、烏帽子を渡しともに上洛したという物語です。

いい話じゃねーかこの野郎。なお、この夫は竈の神とされたり、芦刈明神ともされ、本地は如意輪観音とかもうてんこ盛りになってんのよ。
この夫がご神体となっており、運慶の子孫たる康運が1537年に作成したとの銘があります。巡行の際には複製品が用いられますが、会所飾りでは本物を拝見することができます。
謡曲「芦刈」に基づきます。訳あって離れて暮らす老翁が妻と再会を果たす、夫婦和合の姿が現されています。
占出山の解説 授与品と御朱印
占出山は「祇園社記」には1500年の山として「神功皇后(アユツリ)山」記載されていますが、応仁・文明の乱以前の記載はありません。ご神体は神功皇后で、『日本書記』では三韓征伐に際し肥前の国の松浦の岩上から縫い針を曲げた釣り針、裳からとった糸を釣り糸、米を餌として戦勝ならば魚が釣れるようにと祈願したところ、鮎がつれたとの逸話に取材しています。鮎は元来なますを意味しましが、これにより鮎を表すようになったとされています。出征時、神功皇后は懐胎していましたが、凱旋後に応神天皇を出産しています。この逸話に基づき、安産のご利益があるとされます。ご神体は巡行時には安産の腹帯を纏います。
綾傘鉾の解説 授与品と御朱印
綾傘鉾は1500年の籤定次第には「こきやはやし」と記載されています。応仁・文明の乱以前から現在のような傘鉾の態様を江戸時代まで有していました。1834年には真木の代わりに傘を立て、北観音山の古材で作った鉾として巡行しますが、1864年の元治の大火により焼失しています。疫病退散を祈願する棒振り囃子が随伴する風流囃子物の典型とされます。
布袋山 (休み山)
天明の大火で写真の布袋尊と二童子像をのこして焼失してしまいました。御朱印やちまきなどの授与があります。会所があるわけではなく、期間中とある場所に祀られます。

au nord du 寺 ねー






















