この記事の構成
- このページ 2024年最新、日程、葵祭概説:歴史など
- 2ページ目 斎王代詳細解説
- 3ページ目 路頭の儀:勅使代行列
- 4ページ目 路頭の儀:斎王代列、路頭の儀タイムスケジュール
- 5ページ目 社頭の儀@下鴨/上賀茂神社
- 6ページ目 日程:曲水宴、足汰式、流鏑馬
- 7ページ目 斎王代御禊の儀、歩射神事、賀茂競馬、御蔭祭
- 8ページ目 当日のタイムスケジュール、有料観覧席
- 9ページ目 御所、下鴨神社、上賀茂神社へのアクセス
- 10ページ目 2023年までの突撃レポート
このページのもくじはこの下にあります。
葵祭概説
- 期日:2024年5月15日(水)雨天順延(当日の早朝に決定)
- 時間:京都御所(10:30~)下鴨神社(11:40~) 上賀茂神社(15:30~)
路頭の儀(行列)は以下の時間を目安に京都御所から下鴨神社を経由して上賀茂神社に向かいます。
10:30 | 京都御所建礼門前 |
10:50 | 京都御所堺町御門前 |
11:15 | 河原町今出川 |
11:40 | 下鴨神社着 |
社頭の儀 | |
14:20 | 下鴨神社発 |
14:40 | 洛北高校前 |
14:55 | 北大路橋 |
15:30 | 上賀茂神社着 |
詳細は本稿8ページをご参照ください。
期日など詳細は各神社の上賀茂神社、下鴨神社、京都市観光協会などの公式サイトなどで必ずご確認下さい。
葵祭の正式名称は「賀茂祭」といいます。567年、日本国内では自然災害、飢饉などに見舞われた所、賀茂の神々の祟りが原因と判明したため、これを鎮めるべく始まりました。
「賀茂祭」というのは、賀茂神社の例祭を指します。賀茂神社とは賀茂御祖宮神社(かもみおやじんじゃ。下賀茂神社の正式名称)と賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ。上賀茂神社の正式名称)の総称のことです。かつては旧暦4月の2回目の酉の日に行われていましたが、現在では毎年5月15日に行われます。
祇園祭、時代祭と並び京都三大祭の一つとして知られますが、同時に、石清水八幡宮の岩清水祭、春日大社の春日祭とともに三勅祭としても知られています。勅祭とは天皇の使者たる、勅使が派遣される神社の祭祀のことです。先頃行われた平安神宮の例祭などがこれに当たります。三勅祭とは、勅祭の中でも、とりわけ旧儀を保存する目的で、古式に則って特別な方式で行われるもののことです。
平安時代には貴族の間で「祭」といえば、賀茂祭をさしていました。この賀茂祭が「葵祭」と呼ばれるようになるのは江戸時代に入ってからのことです。江戸時代になると、賀茂祭の時、宸殿、牛車、勅使などの参列者全員が賀茂社の神紋たる葵の葉で飾るようになり、このことから「葵祭」と呼ばれるようになりました。
概要
- 2024/令和六年は例年通りに開催予定。
- 葵祭の歴史は飛鳥時代に遡ります。天災の原因が賀茂大神の祟りと判明したため、これを収束せしめるべく、はじめられました。もともとは加茂/鴨氏の祭でしたが、平安時代に勅祭になりました。
- 斎王代は「斎王」の代わりという意味です。斎王とは歴代天皇の代わりに葵祭に奉仕した巫女のことです。現在では京都に所縁のある女性の中から選ばれます。
- 葵祭は毎年5月15日に斎行されますところ、前儀・後儀が約一か月の間に行われます。御蔭祭、斎王代御禊の儀、賀茂競馬、賀茂競馬足汰式などの前儀があります。
- 2023年は賀茂競馬は930年を祝し、記念事業がありました。詳細は上賀茂神社の該当ページを参照してください。
- 前儀・後儀のうち、最も重要なものは再生という祭の本義に係る御陰祭です。
- 葵祭は上賀茂神社・下賀茂神社での社頭の儀、ならびに、御所(京都御苑)~下鴨神社~上賀茂神社まで移動する路頭の儀により構成されます。一般的には路頭の儀が「葵祭」として言及されます。なのは路頭の儀です。これらすべてを見ることは不可能です。観覧すべき場所、移動方法についての対策は後述します。
- 御所(京都御苑)、下鴨神社、並びに上賀茂神社には有料観覧席が設けられています。例年、御所と下鴨神社のものは事前に購入することができますが、上賀茂神社のものは当日のみ購入可能です(2024年は不明)
- 本投稿は随時更新されます。
みどころ
個人向け有料観覧席
有料観覧席は旅行会社向けの商品が昨年から発売されていますが、個人向けは3月下旬に情報開示、4月9日午前10時から発売です。詳細は京都観光Naviのサイトをご覧ください。
- 一般席最前列 4,500円
- 一般席二列目以降 3,500円
- まなび席(下鴨神社のみ)最前列 9,500円
- まなび席(下鴨神社のみ)二列目以降 8,500円
2024年の有料観覧席が開始されました。京都御所と下鴨神社に設けられます。
前儀の日程
概要
5月15日の葵祭に先立ち、以下の前儀が斎行されます。とりわけ重要なものは御蔭祭です。
期日 | 行事名 |
5月1日 | 足汰式 |
5月3日 | 流鏑馬神事 |
5月4日 | 斎王代御禊の儀 |
5月5日 | 歩射神事 |
賀茂競馬 | |
5月7日 | 献花祭 |
5月12日 | 御蔭祭 |
御阿礼神事(非公開) | |
5月14日 | びわ湖堅田供御人行列 鮒奉献祭 |
足汰式(あしぞろえしき)
- 日程 2024年5月1日(水)
- 時間 11:30から受付開始 競地は13:00頃の予定です。
- 場所 上賀茂神社 有料観覧席あり
足汰式とは、5月5日に開催される賀茂競馬(かもくらべうま)の組み合わせ、走る順番(番立。ばんだて)をを決定します。(のりじり。騎手のこと)の騎乗時の姿勢や鞭の指し方、馬の毛並みなどの優劣により決せられます。
流鏑馬神事
- 日程 2024年5月3日(金・祝)
- 時間 13:00~15:30
- 場所 下鴨神社
葵祭の無事を祈願すべく斎行されます。
斎王代御禊
- 日程 2024年5月4日(土・祝)
- 時間 10:00~
- 場所 下鴨神社
斎王代と女人列参列者の穢れを祓うべく、禊と祓を行います。上賀茂神社と下鴨神社で隔年で斎行されます。2024年は下鴨神社です。
賀茂競馬(かもくらべうま)
- 日程 2024年5月5日(日・祝)
- 時間 14:00~15:30
- 場所 上賀茂神社
宮中由来の競馬会に起源をもち、奉幣の一環として葵祭の無事を祈願すべく斎行されます。
御蔭祭
- 日程 2024年5月12日(日)
- 時間 9:00~
- 場所 下鴨神社など
新に生まれた下鴨神社の御祭神を下鴨へお連れする神事です。葵祭の前提をなしますので、御蔭祭が斎行されませんと、葵祭を斎行することができません。
御阿礼神事
- 日程 2024年5月12日(日)
- 非公開
上賀茂神社の禁足地に於いて、御蔭祭と同様の趣旨から斎行されます。神籬を介し御祭神を降臨せしめる神事の原初の態様を保持する貴重なものですが、非公開です。
後儀の日程
期日 | 行事名 |
5月17日 | 献茶祭(上賀茂神社) |
5月21日 | 献茶祭(下鴨神社) |
5月28日 | 煎茶献茶祭(下鴨神社) |
こちらも詳細は本稿8ページをご参照ください。
更新情報
本稿、並びに関連記事に加筆修正がなされた場合、ここでお伝えします。ブックマーク等していただける方は現在ご覧になっているページにお願いいたします。
- 英語版にも神事と仏事の峻別につき加筆しました。5/14/2023
- 神事と仏事の峻別につき加筆しました。5/14/2023
- 英語版改定しました。5/10/2023
- 御蔭祭の投稿を加筆しました。5/7/2023
- 賀茂競馬の投稿に加筆、併せて本稿の賀茂競馬の記載も加筆しました。5/4/2023
- 流鏑馬神事につき投稿しました。4/26/2023
- 全頁にもくじを付しました。
- 1ページ目にみどころの概要を追加しました。
- 返祝詞につき追記しました。
ヘビ文字版もあるぜ。こっちは後日加筆修正予定だ。
葵祭の歴史
葵祭の起源は少なくとも平安京遷都以前の飛鳥時代に遡ります。
上賀茂神社の賀茂祭のパンフレットによると、上賀茂神社の御祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのかみ)が神山(こうやま。現在でも禁足地で磐座があります)に御降臨された時に、神託により、葵をつけた馬でお迎えしたことに起源をもつと言われます。
また、『山背国風土記』逸文、若しくは『加茂縁起』によれば、欽明天皇在位時(6世紀半ばころ、文献により異なる)、日本国内では天候が荒れ、風水害が続き五穀が実らないなど、天災に見舞われました。欽明天皇は567年、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に原因を占わさせると、賀茂の神々の祟りだと判明しました。
ここで、祟りとは、「祭祀などが適切に行われず、世の中が適切じゃねえ状態」っつー意味で、今日の文理上の意味とは異なるから注意してくれ。当時はよー、大雑把に言うと自然に擬制された神さんの存在と陰陽五行の相克で世界が動いていてたのよ。で、凶作やら天災やらがあると、カメさんの甲羅で占うのよ。こんときは祟りが原因でなんで祟ってるかっつーと祭祀が適切に斎行されてねーからって出たんだべ。
卜部伊吉若日子は勅命を帯び、旧暦4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶり、賀茂の神のおわす斎庭を一気にかける駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になりました。今日ですと、葵祭当日、上賀茂神社で最後に行われる走馬の儀、若しくは御阿礼野で行われる山駆(やまがけ)がこの駆競に相当します。
なんで馬を走らせたかっつーとよー、神様にたのしんでもらって、風水害の原因を除去しようとしたからなのよ。詳細は以下のリンクを参照してくれ。祇園祭の記事だけど、初期の御霊会も同じ趣旨に則ってるのよ。あと、天神さんの記事も参考になる筈だ。祟りに起因するなんかよくねーことを避けるために祀るのかっつー観点からな。
その後、平安時代に入り、810年には律令制の下、勅命により執り行われる勅祭となり、819年には中祀に準じて斎行すべしとの勅命が下されます。『延喜式』によると、祭祀は大祀、中祀、そして小祀にわかれます。これらは斎戒(祭祀に際し、禁忌を犯さないように努めること)の期間により区別されます。中祀では祭の前3日間潔斎します。大祀は践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい。天皇が即位した後最初に行われる新嘗祭)のみ、中祀は祈念祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の四者のみです。
当時は後述申し上げます社頭の儀はほとんど公開されず、上皇、貴族、市民、地方からの見物人は御所から賀茂社へ向かう行粧(行列のこと)を見ていました。この様子は『源氏物語』や『栄花物語』などに描写されています。
このように平安時代には盛大に行われた葵祭ですが、室町時代には徐々に衰退に向かい、応仁の乱以降は途絶えてしまいます。
この後、江戸時代にいったん復活しますが、再び、明治時代に途絶えます。明治12年(1879年)明治天皇の旧儀復興の仰せにより、御下賜金三千円を賜り、先程申し上げました、三勅祭となり復活しますが、太平洋戦争中に行粧が中止され、社頭の儀のみが行われることになります。戦後の1953年に行粧が復活し、1956年に、後述します斎王に変わる、斎王代の女人行列が行われるようになり、現在に至ります。
神仏習合下の神事と仏事の峻別
賀茂祭と御蔭祭では神事と仏事が峻別されており、特色の一つとなっておりますので、追記します。神仏習合下では上賀茂神社、下鴨神社の社領では近代まで仏教寺院がなく(神宮寺を除く)賀茂祭、並びに御蔭祭が斎行される旧暦四月はでの仏事は禁じられていました。
応仁・文明の乱により中断されていた、賀茂祭は1649年に朝廷と幕府の援助の下に復興します。このとき、上記の峻別が顕在化します。下鴨神社の神宮寺の供僧(神宮寺の僧侶)は祭の間、社領の外に追い出されていましたが、参加したい旨訴えます。これに対し、河合社の禰宜は神事にあって仏事を避けるのは、”天下之通則也”であり、斎王が忌み言葉を用いるのも右に基づくと述べています。
結局この慣行は維持され、中断前と同様に、下鴨村の入口には高札と添札が設けられ、祭礼期間中の一条以北での寺院の閉鎖、や僧侶の立ち入りの禁止などが課されました。
この点は祇園祭と比較すると興味深え。祇園祭は神道と仏教(と陰陽道と道教)の連関が密接不可分になってんのよ。祇園祭は、疫病の原因は祟りで、これを鎮めるっつーのが趣旨で、右を達するが為、仏事たる御霊会をかましたのがはじまりなのよ。祟りっつーのは我が国にindigenous(土着のような意味)なもんで、仏教っつーのは外来のもんだべ?この二者が合体してんのよ。殊に祇園祭の嚆矢たる一発目の御霊会は神仏習合の常態化の顕在化の例として著名なもんなのよ。詳細は以下のリンクを参照してくれ。
他方、賀茂祭っつーのは、飢饉や天災の原因を賀茂大神の祟り、i.e., が国にindigenousなもんに求め、仏事ではなくて、神事でこれを除去しようとしてんのよ。
次は斎王代だよ。