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祇園祭2025/令和7年総合ガイド:神輿渡御・山鉾巡行・宵山開催などのみどころ、くじ取り式結果一覧、屋台、日程・粽・鉾立などを網羅

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2025年最新情報

7月1日 吉符入り

ことしも恙なく始まりました。

6月29日

放下鉾のお囃子で宵山を先取りしてみましょう(撮影は6月28日)。明日は夏越の祓です。

6月25日

八坂神社茅の輪くぐり2025

八坂神社の境内に茅の輪が設けられました。祇園祭の核心たる牛頭天王と蘇民将来の逸話に基づきます。

6月21日

祇園祭日程2025

本日現在、境内大国主神社前に2025年の日程が掲示されています。本年も特段の事情なき限り例年通りの日程となりますが、17日の弓矢組武者使役(弓矢町の鎧武者が神輿に随伴)、並びに21日に延暦寺と合同で神仏習合の行事が斎行されます。本稿5ページ以降をご覧下さい。

祇園祭2025年うちわ祇園祭2025年うちわ

尚、現在、今年のうちわの授与がなされています。初穂料1,500円。茅の輪はまだ設置されていませんが、茅の輪のお守りは授与されています。初穂料800円。今月末に茅の輪くぐりができない方は、今週末ですと、平安神宮、伏見稲荷などでくぐることができます。

シカさん
シカさん

御本殿の下には龍穴があるよ。

龍穴と八坂神社の龍穴伝説
本稿では龍穴の意義と八坂神社の龍穴伝説につきご紹介します。

祇園祭2025

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

境内が祭仕様になってきたぜ。

シカさん
シカさん

お囃子の練習も始まってるよ。

6月15日

たけちよ
たけちよ

本年も可能な限り現地情報をお伝えしますので、よろしくお願い申し上げます。合掌

祇園祭2025年日程

2025年も特段の事情なき限り、昨年と同様の日程、態様で斎行されます。尚、現在、例年に比べて気温が低い日が続いています。

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祇園祭概要

御旅所

祇園祭とは毎年7月に行われる八坂神社の例祭で、大阪の天神祭、東京の神田祭と並ぶ日本三大祭の一つです。

祇園祭の発祥は西暦869年に天皇の私的な庭園たる神泉苑で開催された御霊会に端を発します。令和元年の2019年で1150年目を迎えました。当初は疫病を鎮めるための御霊会であり、事実上の官祭と目すべき側面もありましたが、応仁の乱以降、経済力をつけた町衆に支えられ、現在の山鉾の基礎が作られ、神道・仏教・陰陽道・道教が混淆した、多面的なお祭りです。”町衆”の祭と言われることが多い祇園祭ですが、現在でも勅板(祭を開催すべしとの勅命がかかれた板)が神輿に同行します。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

この”町衆”はよく出てくる言葉だから後で詳しく説明するぜ。

今日の一番のみどころは神賑神事たる(但し、後述しますように神事に類する意義も加味されています)山鉾巡行と宵山ですが、他にも宵山の屏風まつりや神楽、前祭では屋台や露店などもみられ、多彩な魅力を備えています。また、合計34基ある「山・鉾・屋台(金魚すくいなどの出店のことではなく、祇園祭でいえば、船鉾や浄妙山などのこと。詳細は山鉾の区別の仕方をご覧下さい。)行事」のうちの一つとして、ユネスコの無形文化遺産に登録されています。

以上のように沢山のみどころがありますが、最も重要なのは、神輿渡御です。

牛頭天王

現在の祇園祭の本義は、疫神たる牛頭天王(八坂神社が祇園社という寺院だった時に祀られていた習合神)と同一視されていた現在の御祭神、素戔嗚尊に洛中(御旅所)に来て頂き、疫病を退散せしめることにあります。「現在の」との留保があるのは、かつては疫神は疫病などの災禍をもたらすもの信じられていたため、追いやられる立場だったこところ、時代の変遷とともに役割が転じて現在に至った経緯があるためです。

山鉾は疫病の原因である悪霊を集め、八坂神社からおいでになり、御旅所に滞在されている御祭神たる素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神にそれらを別の場所に連れて行ってもらう、若しくは除去して頂くことが祇園祭の趣旨になります。

祇園祭はこの本義に則り、1153年前から中断などを経ながら今日まで続いています。祇園祭と申しますと、山鉾巡行がつとに有名ですが、右の本義に鑑みると、神輿渡御がその本質をなすということがお分かりになられるかと思います。

たけちよ
たけちよ

2025年は長刀鉾の長刀が寄進されて800年に当たります。(現在の鉾車形になったのは1441年前後)

シカさん
シカさん

2024年は神輿渡御が恒例化して1050年目にあたるよ。

尚、本投稿はあまりに長くなったため、総論として概要を解説するにとどめ、詳細は各論に譲るものとします。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

以下、詳しく知りたい人のために祇園祭を理解する上で必須の各論を列挙するからよー、順番通りに読んで理解が深めてくれ、old sport!

また、その他の各論は、本文の中でも適宜ご紹介しますが、以下のカテゴリをご参照ください。尚、本サイトには英語版の記事も多数取り揃えておりますので、興味のある方はご覧下さい。

祇園祭
祇園祭の歴史、後祭宵山、久世駒形稚児、先祭宵山、神輿と神輿渡御、祇園祭の歴史と御霊会の意義、日程、山鉾の構造と組み立て方、祇園祭総合ガイド、神用水清祓式、山鉾解説、茅くぐり、宵宮祭などの記事があります。
Gion Matsuri Festival
Articles on the reason why Gion Matusri is cerebrated, Mikoshi, Yamahoko Parade, Schedule, and others

シカさん
シカさん

祇園祭の概要はこのビデオで確認してね。

本投稿は今後、随時変更されます。リンクを張っていただける方、ブックマークして頂ける方は、最初のページ(現在ご覧になっているページ)でお願いいたします。

たけちよ
たけちよ

ご迷惑をお掛けしますが、何卒ご理解のほどよろしくお願いいたします。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

すまねえ。横浜駅やサグラダファミリア大聖堂みてえなもんだと思ってくれ。

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祇園祭の歴史

八坂神社の手水舎

八坂神社は現在は神社ですが、明治元年の神仏分離令が発せられるまでは、「祇園社」若しくは「(祇園)感神院」とよばれる比叡山に属する仏教寺院でした(延暦寺に属するまでは奈良の興福寺の末寺でした)。上の写真は八坂神社の西楼門の先にある手水舎のものですが、「感神院」と書かれているのがお分かりかと思います。「感神院」には牛頭天王という神様が祀られていましたが、牛頭天王は祇園精舎(インドにあるお寺の名称)の守護神であるので、「祇園感神院」若しくは「祇園社」とよばれるようになりました。

たけちよ
たけちよ

尚、八坂神社と牛頭天王に関しては、以下のリンクをご参照ください。

京都八坂神社のご利益とみどころの世界一詳しいガイド
京都八坂神社の本殿と摂・末社ご利益とみどころを七不思議や祇園祭などの年中行事、四季に分け、宇宙一詳細に紹介いたします。
牛頭天王と八坂神社と祇園祭2025:天王信仰と疫病退散
牛頭天王とは、祇園社、即ち現在の八坂神社の御祭神である素戔嗚尊と習合していた神様です。疫病退散のご利益があると伝えられ、明治元年に神仏分離令が発せられるまでは我が国で遍く信仰されていました。本稿ではこの牛頭天王と天王信仰、疫病に対するご利益につきご紹介します。
七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

いまでも牛頭天王のお札があんのよ。貼ってあるお店があるから探してみなはれ。

神泉苑
先鉾祇園祭の本義に軽く触れましたが、祇園祭の歴史は貞観11年、西暦でいうと869年の祇園御霊会に遡ります。御霊会はそれ以前も行われており、最も古い記録は863年です。当時は現在のような発達した西洋医学があるわけでもなく、当初は春に花が散ると共同体に外在する疫病が共同体内部に入ってくると考えられていましたが(鎮花祭)、次第に怨霊が疫病や災害を起こすと考えらるようになりました。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

7世紀になると、中央集権体制に必要な法と執行機関が創設され、『神祇令』では祭祀が規定されたのよ。この中で鎮花祭(はなしずめのまつり)では疫病の原因たる疫神を鎮める祭が規定されたのよ。毎年春を過ぎたあたりから疫病がはやり始めたところ、原因は外在してると考えてたんだべな。

シカさん
シカさん

他にも『神祇令』の道饗祭(みちのあえのまつり)や『延喜式』の宮城四隅疫神祭など、疫病の原因の都への侵入を防ぐ祭があって、これらも疫病の原因が外在しているという通念に基づいていると考えられるよね。ただし、賀茂川の氾濫によりプカプカ浮いてたりする、そこらへんに転がってる屎尿、種々の亡骸といった衛生面での問題といった疫病の氾濫に寄与する要素は都に内在してたんだけどね。

869年当時の夏の京都は盆地で高温多湿であったこと、また現在と異なり上下水道が不備で両者が混同するなどの理由で、天然痘や赤痢、インフルエンザなどの疫病が流行していました。また、全国でも同様に疫病が流行、東北では地震が起こるなど、日本中が災害に見舞われました。この時、疫病などの流行は早良親王などの祟りだとされました。

祇園社司卜部日良麻呂(うらべのひらろ)が神泉苑に当時の国の数である66本の矛を立て、その矛に悪霊を乗り移らせて、祇園社から神輿を送り、疫病退散を願う「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が行われました。これは『祇園社本縁録』によるもので、通説的見解となっています。(但し、原本は逸失)

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

神泉苑は今日では真言宗のお寺だけど、当時は禁苑といって天皇専用の庭だったのよ。で、「庭」っつーのは元来は祭祀や饗宴などを行う場所なのよ。だからここで御霊会かますのは至極当然なのよ。他にも弘法大師が雨ごいの修法を行うとか、競馬(くらべうま)用の馬場があったりとか、いろんなことに使われてたのよ。しかも、神泉苑は当時の御所の裏鬼門になってたからよー、いろんな儀式に使われたのよ。

シカさん
シカさん

他にも上賀茂神社白馬奏覧神事の前身たる「白馬の節」お花見の起源たる「花宴乃節」のような節会も開催されていたんだよ。

「御霊会」とは怨霊を御霊として祀ることです。当初は疫病の原因たる疫神をもてなし、追いやることに主眼がありました。しかしながら時間の経過とともに、強大な破壊力を持つ怨霊を祀ることにより、その破壊力を我々を護る力に転化せしめる効用が期待されることになります。この考えは我が国には馴染み深いものであり、たとえば菅原道真公を祀る北野天満宮などに例を見ることができます。

御霊信仰がいつから始まったのかわかりやすく解説
御霊とは亡くなった人の霊魂を指し、かつては災害や疫病の原因であると考えられました。この御霊を祀り、その保護を受けることを御霊信仰といいます。本稿では右につきいつから、どのように発展したかなど、わかりやすく解説します。合掌。

祇園社に祀られていた牛頭天王は辟邪神(疫神を征する善神)としての性格も持ち合わせていましたので、後に疫病の退散を期待されたものと考えられます。

シカさん
シカさん

牛頭天王は、『釈日本記』が引用する「備後国風土記」などの逸話では疫病をもたらすとともに、たすけてくれた人は反対に疫病から守ってるんだよね。このあたりが「どっかに追いやる→祀って守ってもらう」という変容に寄与してるんじゃないかな。

『三代実録』という歴史書(因みに編者の一人は菅原道真公)によれば、すでに856年には御霊会が行われていたとあり、869年に行われた祇園御霊会は、初期のものであったと推認されます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

この神泉苑の御霊会っつーのは、神仏習合の具体化としての意義もあんのよ。IDEST, 怨霊っつーのは仏教由来のもんじゃねーけど、外来の仏教により怨霊を祀るっー行為は神仏習合の具体化と評することができんべ?ただ、当時の仏教は鎮護国家に寄与することが期待されてて、今の「仏教」とはちと違うのよ。例えば、奈良の大仏さんのときみてえに金光明経とかまして、国全体を益することに主眼があったのよ。

これが現在の祇園祭の起源ですが、当初は疫病が発生した時など、不定期で行われていましたところ、天禄元年(970年)からは毎年開催されるようになりました。

粟田祭剣鉾

祇園祭が始まった当初の矛こういう形の剣矛のことです(写真は粟田祭の様子)。この矛は、祭祀用の矛であり、現在の山鉾の原型とは異なります。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

山鉾のはじまりは以下のリンクを参照してくれ。山鉾の”ほこ”は上記の祭祀用の矛を改良したもんじゃねーのよ。依り代としての機能が付与されている点では共通だけどな。形式的意義に於ける嚆矢は大嘗祭(ヘビ文字版のみ)の標山(しめやま)と考えられるぜ。

祇園祭2025:山鉾巡行はいつからはじまったのか?:山鉾の歴史
祇園祭では、鉾町から出され、疫神を集め、祭の高揚に寄与する山鉾巡行が有名です。右の特色を具備した山鉾の巡行が開始されたのは南北朝時代にまで遡りますが、1100年以上前の祇園御霊会から、これらを胚胎する事物が散見されます。本稿では山鉾が誕生する経緯につき解説申し上げます。合掌

鎌倉時代になると、この矛の周りで風流(ふりゅう)の舞が舞われたとあります。その後、経済力をつけた商工業者(町衆)の住む町ごとに趣向を凝らした山鉾が現れるようになり、豊臣政権の寄町(よりちょう)制度という巡行の負担を分担させる制度などに支えられ発展し、中断はあるものの、1100年以上の間、現在まで続いています。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

この”町衆”っつー表現はどうも室町以降の復興に際して”citoyen”の関与を強調する意図があって使われたみてえだ。実際はgouvernement (et Gionsya)との協働だったのよ。

簡潔にまとめてみんべえか。

(事実の概要)

応仁・文明の乱以前から、山門(延暦寺)は己の主張を通すため、強訴をくりかえしていた。14世紀後半には、山門の鎮守たる日吉社が神輿を出せないという理由から、その末寺たる祇園社に対し神輿渡御を禁じ、座により奉じられる山鉾巡行自体のみが斎行される事態を招来するなどしていた。

応仁・文明の乱により、祇園会は33年間中断することになるが、室町幕府は従前の神輿ルートや山鉾巡行の態様などに関する資料を作成するなど、祇園会の復興に対する後援を行っていた。他方、祇園社側も勧進などによる復興に向けての準備を整えていた。こうした状況の中、1500年5月に幕府はついに復興の命を下す。山門側は日吉社の祭礼が斎行されない以上、祇園会の斎行も許されないと主張したが、幕府・祇園社側は屈せず、祇園会の斎行を果たし、神輿渡御、山鉾巡行が復興される。ただし、山門は翌年以降も同様の主張を繰り返し、祇園会や北野社の祭礼が遅延する事態がつづいた。

こうした状況の中、1533年も日吉社の祭礼は中止されたが、同年5月、室町幕府第十二代将軍足利義晴は翌月(当時の祇園祭は旧暦の6月に斎行)の祇園会の斎行を祇園社に命ずる。同年6月6日(現在の前祭巡行の前日に相当)、山門は祇園社に対し、翌日祭礼を斎行した場合、有形力を行使する旨伝える。同日、政治的混乱などを理由に山門に対する影響力が低下していた将軍は翌日の祭礼を延期すべしと祇園社に伝える。この時、山鉾巡行の行為主体は応仁・文明の乱以前と異なり、地縁に基づく人的紐帯であるところ、翌日(今日でいう前祭巡行当日)、下京の町役人らが祇園社に対し、「神事無之供、山ホコ渡シ度」との申し入れをした。

(評)

で、昔の予断と偏頗のある表現物で、この申し入れが幕府や祇園社に抗う”町衆”の心意気と評されてて、これが一人歩きしてるきらいがあんだけど、仮に抗っていたとすればその対象は山門と解すべきで、幕府や祇園社との協働とであるのは文献から明白なのよ。そもそも前述のように両者は協働関係あると解するのが相当だからな。

どうも、当該表現物では”citoyen”と国家権力(と宗教的権力たる祇園社をl’axe du malと考えているようである)との対立構造の中での前者の正統性を主張してーみてーなんだけど、それならば従前は貴族などが主体となっていた渡物が14世紀に座が主体になって鉾をだした時点を取り上げるべきなんじゃねーの?つーか神仏分離の方が立憲主義の観点からイカレてんのになんでそっちつっこまねーの?

読者の皆様にとって重要なのは、以下の2点だ。

  1. 当該申し入れに、山鉾巡行の行為主体たる地縁に基づく共同体の自律性・自治が成熟し、右の祭礼に対する主体的関が看取されること。
  2. 当時の山鉾巡行は行為主体、行為態様、祭礼における重要性といった観点から、今日の山鉾巡行の原型と評することができること。

詳細は祇園祭の歴史を参照してくれ。(詳細に触れていないので、後ほど加筆します。)

シカさん
シカさん

長いよ。

当初の矛の役割は、悪霊を乗り移らせることでしたが、時代とともに、華やかな鉾を徘徊させることより神様、ひいては怨霊にも楽しんでもらうという意味が加味されていきます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

ただ、山鉾には元来、神霊を迎え入れるという機能もあったんじゃねーかな

御旅所

さて、このように1000年以上の歴史を誇る祇園祭ですが、本質に変更はありません。「鉾に悪霊を乗り移らせて、神様に鎮めてもらう」という趣旨は今日の山鉾巡行、神幸祭・還幸祭に生きています。すなわち、山鉾が市内を巡回し、悪霊を乗り移らせ、その後、神輿に乗った神様が市内(八坂神社は昔の京都の外にあります。)に入ってきます。そして、神輿の神様に悪霊を退治、若しくは別の場所につれいて行ってもらいます。(現在八坂神社がある場所は昔は洛外であることを想起してください。)

たけちよ
たけちよ
さらに詳しく知りたい人は下のリンクを参照してね
祇園祭の歴史と意味をわかりやすく解説
祇園祭の歴史につき概観します。原形たる祇園御霊会と祭の意義、並びに平安時代から令和までの八坂神社と祇園祭の主要な変遷を完全網羅。
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2025年の注意点

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

以下、2025年の注意点だ。

  • 神輿渡御は従前通りに斎行され、神泉苑で神事仏事が斎行されます。
  • 前祭宵山は平日に当たりますが、昨今海外からの客人が増加してるから、オニのように混雑する蓋然性があるっつーか混むにきまってんべが。尚、バーガーワールドでネコのおもちゃだけ持ってけえる不遜な輩の数は減ってるけどな、ガハハハ
  • 後祭宵山は若干混雑の緩和が見込まれるが、しっぽりしている。
  • 長刀鉾の授与品は人気があり、主要なものは売り切れるのが早い。期間中午前9時から頒布開始。
  • 月鉾混む上に授与品が早々と売り切れる高度の蓋然性が認められる。粽は一日の頒布数が決まっているので注意。他の授与品はどんどん売り切れる。殊に手ぬぐいは早めに確保しといた方がいいぜ。
  • 蟷螂山の授与品もすぐ売り切れる。特にTシャツは初日午後に行くともうねえ。2024年は若干残ってたけどな。
  • 函谷鉾は重機で引っ張って最初に立てる。御朱印は複数ある。詳細は下にあげておくぜ。(1、2が例年共通のもの、3、4は年ごと)授与所は例年フライングが恒例。2024年も7月12日時点で粽等の頒布開始。御朱印は近年は四種類あり、下の1、2が固定、3、4が毎年違う図案。4のようにたまに攻めすぎな年がある。2024年は2とドラゴン御朱印があった。
  • 会所飾り・・・四条傘鉾(前祭)と北観音山(後祭)を除く全ての山鉾で公開の予定。
  • 乗れる山鉾(前祭)・・・長刀鉾、函谷鉾、鶏鉾、菊水鉾、月鉾、船鉾、岩戸山 放下鉾は2024年より中止
  • 乗れる山鉾(後祭)・・・南観音山、大船鉾、鷹山

函谷鉾御朱印2022函谷鉾御朱印2022

函谷鉾2023御朱印

たけちよ
たけちよ

尚、日程等は変更される可能性がありますので十分にご留意ください。

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熱中症対策

例年、6月の時点で、日中は30度を超えます。四条烏丸付近はビルが沢山あり、エアコンの室外機の熱気に起因する蒸し暑さがありますので、ご留意ください。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

2025年は例年に比べれば涼しい。東京の暑さに毛が生えたくれえだべ。6月後半からオニのように暑くなっております。

以下、重要な点を箇条書きで列記しますので参考になさってください。

  • 麻やシアサッカーの衣類が望ましい。
  • 日焼けどめ、帽子は必須。
  • 扇風機、扇子、涼しくなるスカーフのようなもの、携帯式扇風機など、冷却するデバイスも必須。忘れた場合、京都駅前や四条河原町などの家電量販店、ペンギンの店などで購入のこと。
  • 水分はリッター単位で補給のこと(自販機やコンビニを利用されたい)。
  • 虫よけ、かゆみ止めは必須。
七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

時間があれば、好きな味のガリガリ君が売ってる店を暗記しとくといいぜ。

雲龍院の龍

雨が降ると寒いこともあるから気を付けてね。

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2025年/令和7年の日程

例年通りの日程で開催ですが、冒頭で申し上げましたように、2025年は以下の行事が追加されます。

  • 17日の弓矢組武者使役(弓矢町の鎧武者が神輿に随伴)
  • 21日に延暦寺と合同で神仏習合の祭典
七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

弓矢町で飾ってある鎧を着て神輿を先導するみてえだ。少なくとも50年前はそうだった。もちろん弓矢町武具飾もあるぜ。着るのはこの鎧だ。

【祇園祭2025】弓矢町武具飾り・武者行列
祇園祭の先祭の期間に開催される、弓矢町でかつて露払いとして神輿に随行していた鎧武者の鎧の展示たる弓矢町武具飾の由来は甲冑につきご紹介します。2025年は50年ぶりに神幸祭に復帰します。
日付 時間 行事 内容
1日(火) 10:00 月並祭・長刀鉾町御千度 長刀鉾町内会とお稚児さんが神事の無事を祈願
2日(水) 11:30 山鉾連合会社参 各山鉾保存会代表者が社参
7日(月) 14:30 綾傘鉾稚児社参 町内会役員とお稚児さんが神事の無事を祈願
9日(水) 14:00 鱧奉納奉告祭 淡路島観光協会が鱧を奉納
10日(木) 13:00 日本神話語り奉納 日本神話の語り奉納
16:30 お迎え提灯 斎行
20:00 神輿洗式 奉告祭の後、早朝にくみ上げた水を以て境内にて斎行
13日(日)~24(木) 御旅所授与所 御旅所の授与所で粽の授与
13日(日) 11:00 長刀鉾稚児社参 長刀鉾のお稚児さんが騎馬にて社参
14:00 久世稚児社参 綾戸國仲神社役員のみ社参
14日(月) 10:30 神泉苑・祇園社御神水交換 神泉苑の閼伽水と八坂神社の青龍水を交換
15日(火) 10:00 月次祭・生間流包丁奉納式 本殿にて斎行
20:00 宵宮祭 神輿に御神霊をお遷し
16日(水) 9:00 献茶祭(表千家) 表千家家元に奉仕
18:00 石見神楽 八岐大蛇退治の舞奉納
23:00 日和神楽 翌日の晴天を祈願
17日(木) 9:00 山鉾巡行(前祭) 斎行
16:00 神幸祭 本殿にて斎行
18:00 神輿渡御出発式 御旅所に御神霊をお遷し NEW 弓矢組武者神使が随行
21日(月) 17:00 八坂礼拝講 延暦寺の僧侶参向、神仏習合の儀式
23日(水) 9:00 煎茶献茶祭 瑞芳菴流家元により奉仕
14:00 オハケ清祓式 又旅社で御幣を立て神輿を迎える準備
22:00 日和神楽
24日(木) 9:30 山鉾巡行(後祭) 斎行
9:30 花傘巡行 斎行
23時頃 還幸祭 本殿にて斎行
28日(月) 20:00 神輿洗式 四条大橋上にて斎行
31日(木) 10:00 疫神社夏越祭 疫神社にて斎行
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2025年のみどころ 総論

神道、仏教、陰陽道、道教の混淆

ときに、祇園祭は神社たる八坂神社の神事ですが、明治時代に神仏分離がなされるまでは、先程申し上げました様に神道と仏教、陰陽道、道教などが混淆し密接不可分になった信仰に基づくお祭りでした。しかし乍ら、1868年の分離令以降は神道と仏教が峻別されたことにより、祇園祭でも仏教、陰陽道などとの紐帯が希薄化しました。しかし乍ら、2025年、17日の八坂礼拝講で神仏習合の祭典が斎行され、右の顕在化が認められます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

陰陽道については、けっこう前にいろんな表現物で取り上げられたみてえだから、事実につき補足すんべえか。偏波のあるものや、特定の事実や時代にのみ特化したものが多かったようなので(真実性が担保されているものも含む)、ここではとりあえず全部忘れてくれ、わりーけど。

じゃあいってみんべえか。陰陽道っつーのは、簡単にいうと事物が陰陽の二者に分かれ、これが変化するとする陰陽説と、事物が五つの元素からなりこれらが変化する五行説、さらに道教、そして、これらに我が国固有の自然・自然現象に人格を擬制する考えなどが混ざったスゲー複雑な宗教体系なのよ。朝廷には陰陽寮っつー役所があって、『養老令』には「占筮(せんぜい)し地を相る」、則ち、占術を用いて地の相をみる(吉凶を判断する)のが職務だったのよ。この占術かまして吉凶の判断をするつーとこから、殊に祓に関与することになったのよ。

で、昔は自然災害とか起こると、この陰陽のバランスがおかしいか、神さんが起こってるかのいずれかが原因とされたのよ。当時はこれらで世界が回ってると考えられてたからな。

陰陽五行説は仏教よりも大分前に入ってきてて、神道にもかなりの影響を与えてんのよ。

 

シカさん
シカさん

以下、神仏習合下に於ける現在の御祭神との対応関係を挙げるよ。左から神道、陰陽道、仏教、道教だよ。

  • 素戔嗚尊=牛頭天王=薬師如来=天道
  • 櫛稲田姫命=頗梨采女(はりさいにょ/ばりさいにょ)=十一面観音=歳徳神
  • 八柱の御子神=八王子/沙羯羅竜王=文殊菩薩=八将神

しかし乍ら、直近の数年間で祇園祭の本義、則ち疫病退散が顕在化し、形式的には峻別された各々の信仰の紐帯の継続が証されることになりました。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

ここは大事なところだから刮目しといてくれ。祇園祭っつーとよー、宵山や山鉾巡行がいろんな表現物で取り上げられんべ?でもよー最も需要なのは、本義たる「疫病退散」なのよ。でもよー、八坂神社の御祭神たる素戔嗚尊からは「疫病退散」つーのは一義的にはでてこねーべ?神仏習合下の薬師如来、殊に陰陽道の影響が顕著な牛頭天王を介することによって初めてでてくんのよ。

この本義っつーのは、神道、仏教、陰陽道なんかの紐帯の認識の如何を問わず、知ってる人は知ってたんだけど、今回のコロナ禍によって多くの人の耳鼻を集めたと思うのよ。で、この紐帯は、明治以降、希薄化・形骸化してきたところ、祇園祭ではなんとか持ちこたえてるし、これからもそうあって欲しいのよ。なんでかっつーと、これらはオレたちの行為規範の背後にあってこれを支えてきたからな。syncretism については以下のリンクを参照してみてくれ。あとは、オメ、やっぱし神仏分離は立憲主義の観点から、並びに事実の問題としても失当だったと解すべきだべ。合掌

神仏習合を分かりやすく説明
本稿では、我が国固有の神祇と外来の宗教たる仏教が混淆した現象たる神仏習合につき、簡潔に分かりやすくご紹介します。合掌
The Rock Garden of Ryoanji hides religious syncretism in Japan
The Zen garden/Rock Garden of Ryoanji temple is one of the most famous gardens in Japan. In this article, we learn about the religious syncretism (Shinto, Buddhism) it hides behind.

和魂と荒魂の和合と活性化

祭の意義は再生/活性化にありますところ、祇園祭でも和魂、荒魂が和合し改まった御祭神を御本殿にお迎えし、神輿で御旅所にお連れし、山鉾を介し各戸に招きます(これがauthenticな山鉾の機能と解される)。

神霊(御魂)には和魂、荒魂、幸魂、ならびに奇魂の四種がありそれぞれの働きがあります。

  • 和魂=柔和な働き
  • 荒魂=荒ぶる働き
  • 幸魂=幸いをもたらす働き
  • 奇魂=人知を超えた不思議なものをもたらす働き

祭に於いては、和魂と荒魂が合一するという例はしばしばみられます。祇園祭では御本殿にましますのが素戔嗚尊の和魂、後述します久世駒形稚児が荒魂とされます。久世駒形稚児は御神体を身に着けることで、荒魂と見做され、昇殿の後、和魂と合一します。これは、合一を介し、神霊を再生・活性化せしめるという意図があります。

シカさん
シカさん

葵祭では御蔭祭っていう前儀があるんだけど、同じ目的だよ。”みあれ”という名称が付されているよ。神輿洗いもかつては川から新たな神霊を迎え入れるものであったと窺知されるよ。

また、祭とは同時にこの神霊を居宅に迎え入れ、己も再生・活性化することも意図しますところ、現在は疫病の原因たる悪霊を集めるという機能を擬制されている山鉾はかつては依代としてこの役を担っていたと解されます。

神輿を振る

これも祇園祭に限ったことではありません。神輿を振るという行為も神霊を再生・活性化せしめるためになされます。

神賑行事たる山鉾巡行の神事への近接

山鉾巡行は純然たる神社が斎行する神事とは異なりますが、今日では疫病の原因たる悪霊を集めるという機能が付与されています。これに鑑み、神事に準ずる機能が付されていると解されます。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

補足するぜ。以下のような意味なんだけど、ヤギも撮影しながら更新してるんで、とりあえずヘビ文字版から引用しとくぜ。ゴーグルの翻訳でもかまして見てくれ。すまねえ。

シカさん
シカさん

中の人は一人だからね

Matsuri consists of Shinji (神事 ritual/ceremony held by Shrine or act for deity) and Kaminigiwai (神賑 ceremony held by secular people or act the secure people ).

たけちよ
たけちよ

For example, in Gion Matsuri, the priests bring the Mitamas of the deities into the Mikoshis. It its a Shinji. Without the priests or the deities, it couldn’t be carried on.  Of course there are lots of people around Mikoshis to give the deities prayers but without them, the priests can complete the duty. For the Shinji, the people are kind of bystanders.

And at Yoiyama, there are food stands. They are belongs to Gion matsuri and the secular   prepares for food stands and the secular buy foods. It’s a Kaminigiwai.

Kaminigiwai makes a contribution especially for the seculars.

Yamahoko parade could be originally a Kaminigiwai but it grew up to be a quasi-Shinji ‘cause it plays the important role: To gather Eikjins to be done away with by the deities brought by the priests.

千年以上の継続

冒頭で申し上げました通り、祇園祭は当初は朝廷の命によりなされていましたが、院政期くらいから費用の一部を富貴な商人が賄うようになり、以降、座、応仁の乱以降は地縁による紐帯が寄与するようになりました。これにより、今日まで、その態様に変化はあるものの、当初の本義が全うされています。

七里ヶ浜親方
七里ヶ浜親方

まとめてみんべえか。混淆した信仰に基づく御神霊を活性化させて万全の体制で疫病(疫神)を退散せしめること、山鉾巡行がこれに寄与していること、これを千年以上前から態様に変化はあるものの、いろんな人が引き継いできたことがみどころなのよ。